メタメタ

 メタ、という概念がある。

 ここはそんなに頭がいい人が書いているブログでもないし、そんなに頭が良い人たちが読むブログでもないから、専門的な解説はできないし、しなくてもいいと思う。で、メタっていうのは、まさに今「このブログはこうこうこういう性質がありますよね」っていうことを言及した、そういう「表現のしかた」のことを言います。「今日こういうことがあったよ」っていうんじゃなくて、「今日はこういうブログを書きます」ってブログに書くこと。入れ子構造にすること。

 まさか、ここまでの内容で既に脱落した人はいないと思うけど、一応、今回のブログは「メタってなんぞや」っていう人のことを想定して書いてますので、がんばって読み進めていただきたい。

 ほら、実はいままたメタ的な言及をしたんですよ。気付きましたか? こういう言及にいちいち気付くことができる人のことを、「メタラー」と言います。言いません。

 たとえば、学校の勉強が楽しい、楽しくない、ということを考えている子どもがいます。そしてその子は、楽しい授業ははりきって受けるけど、楽しくない授業は寝てしまいます。当たり前ですね。
 その子は、「楽しい」「楽しくない」という分け方で授業を過ごしているわけです。しかし、その二分はいずれも「勉強する(こと)」というメタ的な条件から出現しています。
 では、この子の学力を上げたいというときに、どうすればいいのか。僕の考えでは、「楽しくない」を「楽しい」に同一の次元で移動させるのではなく(その教科を楽しくなるように工夫するのではなく)、「楽しい」「楽しくない」に共通している(つまりメタ的な)「学ぶこと」そのものを楽しくさせることが重要なのです。
 つまり、学校という場所は「学ぶ場所」という前提のもとに存在しているわけですから、「学校の有用性」とか、「学ぶ意味」とか、そういうものに疑問を呈する場所ではありません。言ってみれば、「学校で勉強することがどのように有意義なのか」という「メタ的な」ことについては言及してくれないのです。
 そこで大切なのは、自分で「学校」という場所を「メタ化」することです。「勉強が楽しい」「勉強が楽しくない」をメタ化すると「勉強をすること」が出てきます(つまり「楽しい」も「楽しくない」も授業に出て席につくところは同じなのです)。そして、「勉強すること」(と「勉強しないこと」、席にもつかないこと)をメタ化すると、「勉強をすることそのものの意味」が出てきます。
 このようにしてメタ的な思考をすると、「楽しい」「楽しくない」という区分は、実は「勉強をすることそのものの意味」から派生するさまざまな要素の末端にすぎないということが、分かると思います。(さいご具体例も挙げずに雑に終わる)


 つかれた。

 僕はなにを言っているんだろうか。

 でもとにかく、「メタ」には世界を見る鍵が詰まっていると思っています。このブログもメタ的な視点から始まった気がする。

ブログをかきまろ〜

 みなさま、いかがお過ごしでしょうか。

 このブログも、そろそろ開始から一年が経とうとしています。うとうとしているわけではありません。いや、うとうとしています。うとうとしながらブログを書いていますが、そういうことじゃありません。このブログを始めてから、一年が、経過しようとしているのです。そこで、カウンターを設置しました。一番更新していたころに設置すればよかったのに、っていう話ですが、はてなダイアリーのカウンターは、有料なのです。一ヶ月60はてなポイントという料金で、アクセス解析が利用できます。で、僕はいつの間にかはてなポイントが100ポイントくらい溜まっていたので、使ってみました、カウンター。なので、みなさんのアクセスは、解析されて、僕のパソコン上にぶわあああっと、あられもない姿で、どこで、どこから、何時何分何秒に閲覧したか、表示されます。それをぼくは、じつにいやらしい目つきでながめては、ああ、これはあいつだ、これはあいつだ、などと独りごとを言っているのです。どうですか。どうですか、って言われてもどうなんでしょうって感じでしょうけど、なんか、あれですね、いままで僕はあなたたちのスマホやパソコンのブラウザから覗かれるだけの、いわゆる覗き小屋の風俗嬢、みたいな、視姦されまくり、みたいな、四六時中エクスタシーみたいな、そんな感じだったわけですけれども、これからは、逆に、覗いた先の全裸の僕と目が合っちゃう、みたいな、そういう新たな繋がりといいますか、スリリングな閲覧環境になったわけです。ゾクゾクしますね。お互いに。

 とまあ、書きましたけど、ぶっちゃけ誰が見てるとか、わかんないですけどね。当然ですけど。

 で、肝心のアクセス数ですけど、これがまあ、一日5アクセスくらいという、「首相官邸YouTubeにあげた政見放送」みたいな低アクセス数を記録していて、なんというか、ロマンがねえなあというか、いままで「どうせ人気のないブログだ」だの「二人しか見てない」だのなんだかんだ言っていたわけですが、心のどこかでは「一日2億アクセスくらい稼いでるんじゃないか」みたいな希望もあって、そういうものが一気に消え去ってしまったので、悲しいです。もうアクセス解析やめようかな。

 まあ、いずれにせよ、そろそろ「ウエダ」の看板を外した新しいブログを作りたいと思っています。なんか、このブログを見るたびに「ウエダ」の文字が視界にちらつくのがムカつくんですよ。

 あと、なんでしょう。なにか書くことあるかな。いや、ないわ。おやすみなさい。

サンキュー・フォー・スモーキング

 ぼくは、タバコが嫌いである。タバコが嫌い、ということをあらためて宣言するのは、やはり気が重い。なぜなら、タバコは、馬鹿にすると厄介な人たちを敵に回すとして恐れられている四大ヤンキー文化、すなわち「クルマ、パチンコ、タバコ、エグザイル」のひとつだからである。

 さて、オチのところで見栄え良くカタカナを並べるためにここまで「タバコ」という表記をしてきたが、なんだかアンパンマンの「バタコ」みたいで気合いが入らないので、ここからはたばこ、という表記でいかせてもらおう。

 ぼくがたばこを嫌いなのは、まず、けむたいからである。たばこは、けむりが出る。しかも、たばこのけむりは、上に行くでも下に行くでもなく、なんとなーく、ばかみたいにただよう。気体特有の「どこへでも行ける私」みたいな感じで。そのくせ、たいていその付近に留まって、おもに人の顔面の高さでただよう。もっとこう、空気より重いとか、軽いとか、気体ならではの空気とのせめぎあいというか、個性があればいいのに、そういうのはないらしく、「風次第」という極めてだらしのない感じで、ただよっている。


 けむりも嫌いだが、ぼくが強く主張したいのは、ファッションとしてのたばこ、そのだささである。

 まず、たばこの持ち方だ。あの、人差し指と中指のあいだに「はさむ」やり方。あれが気に入らないのである。
 ひとは誰しも、かつてはあかちゃんであった。そして、あかちゃんは、手の腹でものを「握る」ことから、世界を知る。なんて無垢であろうか。指先が器用じゃないから、握ることしかできないのである。そのうち、成長してくると、あかちゃんは、指先でものを「つまむ」ことを覚える。親指とその他の指を使って、その間でものを「つまむ」のである。おもちゃをつまんで、人形をつまんで、遊ぶ。なんて可愛らしいのだろう。
 しかし、そんな可愛い時代もつかの間、いつからか子どもは、ものを指で「はさむ」ことを覚える。指を折りたたまなくても、「パー」の手から単純に指を閉じれば、それなりにものをはさむことができると、気付くのである。


「別に、握らなくても良くね? ちっちゃいものなら、はさむだけで十分っしょ」


 ふざけるな、と言いたいのである。


 ぼくたちはかつて、おしゃぶりをくわえていた時代があった。思い出してほしい、あのおしゃぶりを口から取り出すとき、唾液でびちょびちょになったおしゃぶりを、きき手の全部をつかってむんずと握り、腕までヨダレだらけにしたではないか。自分のおしゃぶりを外すとき、「汚いから」という理由で、指先でおしゃぶりを器用に「つまんで」外したり、あろうことか指の間に「はさんで」外したことがあっただろうか。否、われわれは決して、そのような横着をしたことはなかったはずである。

 それにくらべて、たばこを吸っている奴らはどうだ。どいつもこいつも、「ほとんどパー」みたいな横暴さの手でもって、たばこを口から外したり、また口に戻したりしている。「このくらいの大きさなら、握力なんて使わなくてもイケるっしょ」とでも言いたげな表情をしているのだ。もっとひどいのは、「指と指の隙間に、たまたまはさまったんス」みたいな顔をしてたばこを持っている奴もいる。たしかに、あなたは昔とくらべて器用にはなったのかもしれない、しかし、もっと大切なことを忘れてしまったのではないですか、と言いたいのである。たばこを吸っている人間の姿というのは、「洗練されました」みたいな、ひどい文化人面していて、格好「よさげ」なのが、腹立たしい。「猿から進化して、はさむという手段を覚えたんスよ」みたいなドヤ顔感が、ぬぐえないのだ。

 いっそのこと、ギタリストがハーモニカを吹くときに使う、あのダウジングの棒をひっくり返したみたいな首かけ型の器具を使えばいいと思う。そうすれば、あの醜いドヤ顔感が、少しは減るだろう。もう、たばこを、「指ではさむ」の禁止。
 極端なことを言うが、「指ではさむ」という動作がカッコイイと感じてる人は、ちょっと頭が悪そうだな、とすら思っている。男子諸君なら分かると思うが、キャッチボールをしているとき、やたらフォークボールを投げてくる奴がいるだろう。そいつと同じ「アホっぽさ」を感じる。あと、ペットボトルを、人差し指と中指を使って、キャップの下の部分をはさんで持つ奴もいるでしょ。ぶらぶらぶら下げて持つ奴。あれも、バカっぽいよね。つまり、人間は進化によって、猿には不可能な「はさむ」という高等な「持ち方」を習得したわけだけれど、それを今度はあまりに「これみよがし」に使うと、ダサくなっちゃうんですよ。分かっていただけましたか。

 ちょっと話が変わっちゃいますけど、オリンピックでメダルを取ったアスリートが、表彰台の上で手持ちぶさたに耐えきれず、とりあえず首からぶら下がっているメダルを噛んじゃう、っていう寂しい現象があるじゃないですか。どんなに速く走って、表彰台のいちばん上に立っても、彼らって台の上でじっとさせられて「間を埋める」能力はないから、とりあえずメダル噛んじゃうでしょ。「とりあえずメダル噛んどけばいっかあ」って言いながら。でも、たとえば、一等賞の賞品がダイソンだった場合、ダイソン噛む奴います? いないでしょ。なぜなら、ダイソンって、床に落ちている埃を吸うためのものだからです。ちゃんと用途があるから、それ以外の「噛む」とかいう行為は、お断りなんです。
 つまり、メダルって、意味ないんですよ。意味ないものが首からぶら下がってて、なんか噛むのにちょうどいい、おせんべいみたいな形してるから、噛んじゃう。で、噛んだら、ちょっと「笑ってる」みたいな顔になるから、それがまたカメラマンにとっては好都合、っていう。

 話がそれましたね。なにが言いたいかというと、ひとは、間を埋めるために、とりあえず口になんか入れとけばいっかあ、っていう方法をとりがち、ということです。ものさびしさを、とりあえず口に何かくわえたり噛んだりすることで「ごまかす」っていうのは、これもまたちょっとバカっぽくないですか。なんか、たばこなんていう方法に頼らず、「無」と向き合う時間があっても、いいじゃないですか。別に、頭から何かひねり出さなきゃいけないクリエイターでもないんですから。

 あと、二点。

 たばこって「火」だから、ちょっとワルい中学生が火遊びをしたがるように、どこか「アブなさ」を求める心をくすぐるんだと思います。これも、例えば猿って火を怖がるじゃないですか。「はさむ」論と同じように、おいらはもう猿じゃないぜ、進化したぜ、洗練されたぜ、だから火なんて怖くないんだ、とでも言いたげな感じがしますね。

 最後、けむりに関してですが、たばこ吸ってる人って「たゆたう」ものが好きっていうのも、あるんじゃないですかね。たばこが好きな人って、アクアリウムとか好きな気がするんですよ。なんか、あいつら、ゆらゆらしてるものが好きじゃないですか。ゆらゆらしたりするものって、なんていうか、スピリチュアル感があるから。ラッセンの絵とか、すごい、いろんなものたゆたってる感じしませんか?


 長くなっちゃったんで、このくらいにします。たばこ吸っている人、まあ、気を悪くしないでください。麻薬みたいなもので、やめたくてもやめられない、っていうのは分かってますから。それでは!

 

世界を終わらせてはならない

 世界には、入ってはいけない場所がたくさんある。たとえば、他人の部屋に勝手に入ってはいけない。それから、閉店後のデパートにも入ってはいけない。いけない、いけない。ぼくたちは、思ったよりも入っちゃいけない場所に囲まれて暮らしている。というか、入っちゃいけない、とされているように思わされているが、本当のところ、出ていっちゃいけなかったりする。自然法則は僕がロケットなしに宇宙に行くことを許さないし、日本は僕がパスポートなしに国外に出ることを許さない。

 踏切のなかは、入ることができる。ただし、遮断機が上がっているあいだだけだ。遮断機がおりているあいだ、あるいは遮断機がおりようと警笛を鳴らしているときには、踏切のなかに入ってはいけない。たとえ、死ぬためだろうと、人を助けるためであろうと、踏切のなかには入っちゃいけない。なぜなら、踏切のなかは、世界の外側だからだ。僕たちの世界は、自然法則や法律によって閉ざされているが、世界の外側に出る方法がないわけではない。遮断機がおりた踏切のなかに、目を凝らしてはいけない。そこは闇であり、世界の外側だからだ。砂漠に浮かぶ蜃気楼のようなものだ。
 

 台風が来るたびに、自分の畑の様子を見に行って、行方不明になる人がいる。
 先祖代々受け継いできた大事な畑に、汗水流して大切に育てた作物がある。大切なものを守りたいという思い。命の危険を冒すに値する理由がある。少なくとも、本人はそう思ったのである。
 踏切の中の他人と、台風の日の愛する畑。赤の他人を救おうという思いと、大切な畑を守ろうという思い。理に適っているのは、畑を守ろうという思いだ。命が大切なのではない。愛するものが大切なのだ。愛猫が死んで涙する者でも、見知らぬ人間の死には涙しない。当然だ。

 踏切の中の他人を助けて、自分は死ぬ、その行為の、得体のしれなさ。理由のなさ。説明のつかなさ。自分の命を犠牲にしてでも、赤の他人の命を救うのが信条ならば、この世界では、一年と生きていられない。きまぐれで、世界の外側に出てはいけない。あなた亡きあと、世界にあなたへの称賛は存在しない。あなたの死は、世界の消滅だ。生きなければならない。世界の外側に、目を凝らしてはいけない。

永遠の永遠の永遠

 大学四年生の夏も終わりに近づいてきて、大学生活の総括をすると同時に、春からの会社勤めに備えなければならない。このブログのようにふざけたことも、なかなか書く気になれない。だんだんと、時間が無くなってきているからだ。

 なんどもブログを書こうとして、この編集画面に来ては、手が止まってしまった。

 自分がつまらない人間になってしまったのかどうかは、わからない。もともとつまらないよ、という声もなきにしもあらずだろう。しかし、僕はこのブログ、めっちゃ面白いと思っている。そして、これからも同じような路線で面白いことを書いていけるかというと、微妙だと思う。

 やはりすべては、過去に吸い込まれていく。

 先日、ひとつの記事を消した。自分語りが度を過ぎた記事があったからだ。このブログを始めてから、一度書いたものを消したのは、初めてのことだった。タブーはある。それは国家とか天皇とか大企業とか、そういうものではなくて、僕たちの極めて身近にある。そういう色々なタブーが、やはり大人になるにつれて少しずつ増えていった(若者が大きなタブーにぶつかっていけるのは、身近なところにあるタブーがまだ少ないからだろう。そしてそんなものはあってもなんの自慢にもならない)。人のことを悪し様に書くのには、エネルギーが必要だ。そのようなエネルギーが無くなっていったのと同時に、再び燃やしていく意味も分からなくなっていった。いや、今後とも是非燃やしていきたいが、当分は難しいように思う。

 こうして、無理に書き連ねていこうとすると、ほとんど意味が分からなくなっていく。

 僕は何を書きたいのか。

 やはり最近考えていることを書きたい。というか、最近考えていることしか書けない。

 最近考えているのは、春から勤める会社(というか世間一般の「会社」そのもの)のことだったり、恋愛のことだったりすることが多い。やはりそういうのは、書けない。遠慮がある、というより、色々なエクスキューズを付けながら、書くとすると一つの文章の中で誤解に対する緊急回避を何度も繰り返さなければならない、というのが、非常に非常に面倒くさい。やはりそれがブログというものの免れない苦痛である。

 それと、僕だって、真に悶々としたものをブログにのっけようとは思わない。ここにのっけられるのはせいぜいジャブ級の、悶々のジャブ、悶々ジャブといった類のものだ。そのかわり、ここでは爽やかなエンターテインメントを志向している。つまり、面白さに関しては一級品だと思っている(馬鹿みたいな顔してこう言いきれるのがこのブログのいいところである)。
 そして、真に悶々とした、この間消した記事のような、さらに、いま頭の中で考えているほとんどすべてのことは、もっと違ったかたちで発露させ、解消されるべきだと思っている。

 どうだろう、僕の悶々をおわかりいただけたであろうか。悶々について語るのもやはりジャブ級の悶々トーンじゃないといけないと思ったので、むやみに行間を空けつつ書いてみた。だからなんだって話だが。

 それではみなさま、良い三連休を!

たごもりそ著『たごもりそ全引用集』

 これは、新たな文学であり、コラージュ作品であり、21世紀のレディ・メイドである。



 すべてを額縁に入れて飾ろう。



高校球児は、真夏の炎天下で競い、敗れ、サイレンの声で泣かなければ、なんの価値もない田舎の馬鹿高校生である。甲子園から去っていくのは彼らだけで、われわれは来年、すべてを忘れてこの場所に戻ってくる。新たな高校球児を、甲子園から永久に追放するために。(たごもりそ著『甲子園外』より)

高校球児が輝いて見えるのは、夏が終われば彼らは死ぬからだ。炎天下で行われる試合を否定するのは、彼らを生殺しにすることである。(たごもりそ著『消費される青春の輝きとして』より)

高校球児は、死と隣り合わせだからこそ輝くのです。真っ黒に日焼けした、坊主頭で田舎者の高校生が、人生で一瞬だけ輝く舞台が甲子園。どのみち彼らは夏が終われば死ぬのです。せめて最期のきらめきは、夏の太陽という最高のスポットライトを用意しなければなりません。(たごもりそ著『高校考』より)

たくさん語ることによって、自分を貫く思想のベースが見つかる。たとえば以前(A,B,C)と言ったが、今回は(B,D,E)と言うとする。そのとき仮にAとDという二つの言説が矛盾をはらみ対立しても構わない。大切なのは言説Bがここでも再び現れたということだ。(たごもりそ著『話話し』より)

表現世界における新しい概念として、ディスコミュニケーショニズムを提唱します。(たごもりそ著『ディスコミュニケーショニズム』より)

すごい勢いで座席を二人ぶん占領したおばさんに遅れて、誰がくるのかと思ったらモコモコのトイプードルが走って来たときは、東京の電車ってすげーなと思いましたね。(たごもりそ著『犬猫八百』より)

近所から子供達の笑い声が聞こえて、耳をすますと豚の鳴き声になった。(たごもりそ著『昼寝』より)

われわれの帰属欲求は、内輪から生まれた流行りの言葉を模倣するだけで、容易に満たされるようになってしまった。言葉による安易な帰属意識は、マズローの欲求階層の上層にあたる尊厳欲求や自己実現欲求が満たされるのを阻害することに、君たちは気付かねばならない。(たごもりそ著『知識人へ』より)

われわれにとって、認識できるすべての死は他者の死である。であるならば、天国は「救われたい」ではなく「救われてほしい」という思いから生まれた、と考えるほうが自然ではないか。(たごもりそ著『死に改めよ』より)

小野寺くんなんか、最近僕が何を話してても内心「こいつ頭おかしいからなー」って思ってらっしゃるのがあからさまに顔に出てて、そうなると僕も期待通りに適当言って帰ろうっていう、そういうネガティブな関係が確立しつつありますね。(たごもりそ著『あるいは比喩としてのハバネロトマト』より)

人間を二つに分けると、舞台に立てば立つほど面白くなっていく人間が一割と、面白くなくなっていく人間が九割いる。そして残念なことに、前者は舞台に立とうなんてことは滅多に思わないため、今日も舞台の上はどうひっくり返っても面白くない人間たちで溢れている。(たごもりそ著『壮観』より)

知り合いの女子大生のフェイスブックに「いいね!」をおす中年オヤジのアイコンは、ちょっぴり切なく、ちょっぴりきもい。(たごもりそ著『will be next』より)

生理が重い女子が、全女子を代表するかのように発言する「生理中の女の子には優しくしなきゃだめだよ!」は、どういう顔をして聞けばいいのでしょうか。どうにも切ない顔をして、やり過ごすしかないのでしょうか。(たごもりそ著『深淵のフェミニスト』より)

最近、自分が偏屈な人間になってきているなあと感じる。自分の理不尽な言動に、屁理屈が追い付いていない。「一の理不尽に百の屁理屈を」がモットーだったではないか。(たごもりそ著『新社会人』より)

アイドルオタクの人たちに言いたいのは、綺麗なものばかり見ていては、もっと面白いものが見えてこないよ、ということです。(たごもりそ著『上からまりこ』より)

誰かが「ハーフってなんでみんなあんなに可愛いんだろうねえ〜!」って言っているのを聞くたび、日本にもおよそ50万人いるとされる「北欧とのハーフなのにそこまで可愛くなく生まれた人たち」を思い、心が痛む。決め付けは、いくない。(たごもりそ著『生粋のニホンジン』より)

「異文化」なんて、分かり合えるはずがない。この世には星の数ほどの「異文化」があって、大切なのはその「異文化」を知ることでも、肌で感じることでもない。ただただ、膨大な数の「異文化」を前に絶望し、分かり合えないことが分かればいい。(たごもりそ著『分かり合えないことから』より)

永久に分かり合えないことが分かって、初めてその両者の関係は完璧なものとなる。分かり合えている、あるいは、いつか分かり合える、なんていう幻想を抱いているうちは、一部たりともその相手とは分かり合えていないのである。(たごもりそ著『分かり合えないことから』より)

書を読まずに文を表すのは、こちらが読まなければいいだけで、構わないが、書をたくさん読み、それでいて文を表さないのは、不気味であり、不徳である。(たごもりそ著『積読書家』より)

丹精込めて書き上げた超絶面白ツイートより、ほぼ脊髄反射で生まれた「激ぶり便便糞」のほうがみなさんの人気を集めるという事実。この理想と現実の差に、僕は明日も世を憂い、そして、生きていくのです。今日の相違は、すなわち、明日の希望です。(たごもりそ著『F5』より)

今後の二人の関わりかたを考えるとき、その当事者性はもとより、複雑かつ難解な人間同士の関わりを取り決める際に一人の脳味噌では不足であり、二人の頭脳を利用したほうがいくらかましなのは単純明快なことである。ここに相談と喧嘩が生まれる。(たごもりそ著『夫婦という絶望』より)

親讓りの小心者で小供の時から損ばかりして居る。小學校に居る時分學校のジヤングルジムが怖くて三年間友達が出来なかつた事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。ジヤングルジムの上に居たら、いつそこから落下するか分らない。(たごもりそ著『坊や』より)

太陽ガザラザラシテキテ、ソロソロ日焼ケ止メクリヰムノ季節ニナツタ。世ノ女ドモニ倣ツテ、僕モ色ノ白サデ幾難カ隠ソウト思フ。(たごもりそ著『黄色人種ノ祈リ』より)

この世の「かわいい」の価値を消滅させるなんて、簡単なことさ。僕が「かわいい応援団」の団長になればいい。僕みたいにかわいくない人間がその団長になれば、たちまち「かわいい」の市場価値は暴落するのさ。(たごもりそ著『かわいい・かわいくない戦争』より)

おいしいたまごやきを作るために、最高級のたまごを取り寄せるのは、二流です。立派なめんどりをもらってくるのが一流で、ひなから育てるのはただの間抜けです。(たごもりそ著『王さまつきの料理人』より)

銃声が鳴り止めば、戦争は終わって戦後が始まる。それにくらべて、戦前の始まりは、明け方の空が徐々に白んでくるように、その前触れが曖昧模糊としている。気が付いた時には、すでに太陽は向こうの山から顔を出し、夜明けを告げている。(たごもりそ著『戦争前後』より)

今日もスタバのイケメン店員が、カップに雑なメッセージを書き散らして、お客様を幸せにしてる。やっぱり親切は供給過多なんですよ。親切は、他になんの取り柄も手立てもない、僕みたいな人間の最後の武器なので、みなさん軽々しく使わないでくださいね。(たごもりそ著『斜に構える男』より)

教育番組はフィクションだけれど、僕の命はフィクションじゃない。お葬式に集まる群衆は、死者のために祈るのではない。祈りは、他人の死を受け入れ、心の整理をするためのエゴイズムに過ぎない。だからお願いだ、僕を、僕が死ぬまえにちやほやしてくれ。(たごもりそ著『あるワクワクさんの死』より)

われわれは言葉でものを考えているくせに、いざ頭のなかの考えを言葉にすると、決まって右斜め上に大きく逸れる。見逃し三振はありえない。批評はいつも、空振り三振だ。(たごもりそ著『イーズン・イン』より)

「みんなが思いもつかないこと」を言うよりも、「みんなが思ってても言わないこと」を言うほうが、ずっと有意義だと信じている。そうでもなければ、なんの才能もない僕らが、どうやって這い上がっていけるというのか。(たごもりそ著『言わず語り』より)

われわれは、生まれながらにして、かまってちゃんである。だいいち人間なんてものは、男と女が、精子卵子が合体してしまうほどにお互いをかまいあった結果生まれるのであって、すべての人間は、かまってちゃんの遺伝子を、DNA螺旋にからめとっているのである。(たごもりそ著『生命原始』より)

新幹線や飛行機、長距離バスといった「予約系のりもの」にいつもギリギリで飛び乗るのは、待ち合い室やホームや路上で間抜けな面をしてのりもの様の到着・準備を待ちたくないからだ。人間を待つのは愉快だが、のりものを待つのはつまらない。(たごもりそ著『チャリにノッている男』より)

ホワイト企業にも泥のように働く人はいるし、ブラック企業にも能天気な給料泥棒はいるのです。同じ組織のなかでも人は一様ではないこと、そんな簡単なことを20年間生きていてまだ理解できていないところに、私はあなたたちの愚かさと限界をみるのです。(たごもりそ著『働くことと生きること』より)

やれこの会社はブラックだなどと、いちいち受ける会社の企業名をネットで詮索するような気弱さと生真面目さを持ち合わせている時点で、どこの会社に入ろうが、そんな奴はただ働き蟻になるだけである。(たごもりそ著『働くことと生きること』より)

「人の名前を覚えるのが苦手」とか「顔と名前がなかなか一致しない」とか、そういう腑抜けたことをおおっぴらに公言してるやつらが、リクルートスーツに身を包んでたいそうな自己アピールをしているわけですから。(たごもりそ著『働くことと生きること』より)

あなたも私も、いつ死んでしまうか分かりません。だから、ごはんはなるべく一緒にたべましょう。(たごもりそ著『人間嫌い』より)

生まれたばかりの赤ん坊が大声をあげて泣くのは、お母さんにかまってもらうためだ。われわれは、生まれながらにしてかまってちゃんだったのである。そして大人になり、男は女に、女は男にかまってもらい、やがて、新たなかまってちゃんが生み落とされる。(たごもりそ著『あるかまってちゃんの一生』より)

野球選手はグラウンドで野球をしているから価値があるのであって、オフはただのおじさんである。だからオフの選手の動向には一切興味がない。というか、毎年冬には野球のルールをことごとく忘れて、春に覚え直している気さえする。所詮はにわかなのである。(たごもりそ著『外人野球』より)

われわれの世代は戦争を知らない世代ってことになってるけど、イラク戦争では自衛隊が派遣されたわけだし、ふつうに戦争世代なのかもしれない。だとすると、当事者意識がないぶん、タチの悪い戦争世代なのでは。(たごもりそ著『よい戦争?』より)

どうせすぐ死んじゃうんだったら、間違ったまま、知らないまま死んだほうが幸せってこともあるかもしれない。だからもう、ジェンダーとかインターネットとか、この時代の「本当のこと」は、極力、言わないであげよう、と。(たごもりそ著『戦争を経験している老人に言ってはいけない20のこと』より)

すべてのハーフの人が、ハーフじゃない人を馬鹿にしている、と仮定するじゃないですか。そこから生まれてくるハーフじゃない人間の表現とか発想みたいなものは、全部無駄ですか?っていう、そういうことなんですよ、僕が言いたいのは。(たごもりそ著『文学における虚数として』より)

たしかに人は涙の数だけ強くなれるけど、もっと手っ取り早いのは、敵を作ることよ。1人の友達を作るなら、それと同時に10人の敵を作りなさい。友達は誰でもいいけれど、敵は優秀で、人望があるほうがいいわね。(たごもりそ著『東京祝賀』より)

僕がもし総理大臣になったら、世界中全ての銀杏が生ってる木を切り倒して、「イチョウの葉っぱに秋を感じるなあ」なんて風流なことをぬかしてるやつの実家に大量の銀杏を送り付けてやります!どれもちょっと潰れたやつを!(たごもりそ著『愛と追憶のマニフェスト』より)

桃から生まれたのが桃太郎なら、おれは機敏から生まれた機敏団子さ。とにかく、あんたの繊細な心の動きから生まれた、ただのまんまるな情緒の塊にすぎないんだぜ。(たごもりそ著『新版あたらしい桃太郎』より)

引用の形式を採ることによって、(1)前後の因果関係を内包できる(2)発言の内容に根拠があるように思わせやすい(3)発言の責任を回避しやすい等のメリットがある、とされている。また、大学生が好む「引用」へのアンチテーゼだという説もある。(たごもりそ著『引用』より)