やるしかないから、しぬしかない。

 「やるしかないから、やるしかない。」というキャッチコピーがありますね。あれ、相当バカだなあと思います。まあ、「バカだなあ」と思わないで「そうだなあ」と思うバカがうまいぐあいに就職していくシステムは、至極まっとうだと思いますけどね。あれを「バカだなあ」と思うような奴はたぶん、それ以外の部分でも人生うまくいかないでしょうし、その上手くいかなさを楽しめる人間だと思うのです。ま、どうでもいいですね。

 十二月に、就職活動が始まるじゃないですか。で、三年生に、「シュウカツ不安ですぅ」みたいなことをたまに言われるんだけど、まあ、それを言ってくる奴らっていうのは、こちらが相談に乗るまでもなく、勝手に上手くやれる奴らなんですよ。うまいことシュウカツが終わった四年生って、「下級生にシュウカツについて伝授したさ」でウズウズしてるじゃないですか。「自分はこのくらい頑張ったよ、そしてその結果この会社に入れたよ」、ジャーン!っていう。そのプチ報告会じゃないですか、「後輩の相談に乗る」というのは名目だけで。だから、そういうふうに「シュウカツ不安ですぅ」を言えて、先輩にドヤ顔することを許せる奴っていうのは、なんていうか、世の中上手く渡っていくことが可能な奴か、働くことへの意識が高い奴なので、大丈夫だと思います。

 えっと、つらつらと書いていこうかな。

 17日、下北沢のB&Bっていうサブカルくさい書店にて、巖谷國士先生から、シュルレアリスムについてありがたいお話を聞きました。面白かった。マックス・エルンストアンドレ・ブルトン瀧口修造なんかにも言及しながら、シュールレアリスムとは何ぞやということを、「特定の様式がない」ということを前提に、科学主義、合理主義、ユートピア思想、さらには資本主義における労働なんてものと比較しながら、まあとにかくいろいろ分かりやすく話をすすめてくださった。とくに「見る」についてのお話は、「目」は教育されるものだっていう話から、カンブリア紀の「目」、遠くの富士山を見る「目」なんて、いままで自分がなんとなーく感じていたものが言語化されていくドキわく感を味わえた。で、その巖谷先生が、講演中おそらく百回以上「シュルレアリスム」って言っていたんだけど、ていうか、あの人たぶん人生で一千万回くらい「シュルレアリスム」と発音していると思うんだけど、なんか「シュルレアリスム」とはもはや言ってなくて、「シャリスン」みたくなってました。なんか、ひとは、「シュルレアリスム」って言いすぎると、「シャリスン」になるんだろうなあと思います。ガラパゴス諸島に生息するオットセイが独自の進化をたどってガラパゴスオットセイになったように。これが、ぼくみたいな「シュルレアリスム」と口に出したことが人生で五回くらいしかない人間が、いきなり「シャリスン」と言うと「ふざけんな!」って話になるわけよ。「ちゃんといえ!」って。シュルレアリスムを「シャリスン」と言っていいのは巖谷先生だけですね。

 20日、キュンチョメっていう若手美術家の個展を、高円寺に見に行った。以前、山本現代というギャラリーでグループ展があったとき、その存在が際立っていたので、まあ、なんとなくチェックしていた作家である。で、今回は震災をテーマにした展示。震災って、いま森美術館でやってるアウト・オブ・ダウトもそうだけど、やっぱり「そっからどう変革していきましょうか」みたいな持っていきかたが正攻法だと思うし、震災とがんじがらめになっている日本をどうリカバーするのか、という問いがバックにある感じがするのですが、キュンチョメの作品は、あくまで震災は「きっかけ」であって、どうせ震災があってもなくても問題にされていたであろうテーマを扱っているんじゃないかな、という気がしました。いや、そもそもテーマなんてなくて、つまり「こういう表現をやりたい」っていうのが根底にあるのではない気がする。ただ単に、世界の変容を面白がっている。変容し、不安定になりゆく個人と世界との繋がりを、SNSではなく、街の中で再現する。そのとき、震災っていうのが一つの装置として、舞台として機能する、ただそれだけなんだろうと思う。あと、キュンチョメはホンマさんとナブチさんという二人組なんだけど、ホンマさんは普通にコミュ力が高いっぽい。作品がわりとゲリラ的なので、いきなり顔面につばを吐きつけられたりするのかなあ、と思いながら恐る恐るギャラリーに行ったんだけど、普通に優しく声をかけられました。
 ただ、ここのところ、やっぱりアーティストと観客のポジショニングってすごく難しいと思っています。いま、こういうふうに何か書くと、わりと本人に検索されて、読まれちゃうじゃないですか。インターネットは。で、相手が商業的な、EXILEとか浜崎あゆみとかなら、いくら褒めても悪口書いても本人に見られることはまずないでしょ。なんならジャスティン・ビーバーとか、「なんかげっ歯類みたいなきもい名前だなあ」と僕は思っているけれど、そういう思いを今書けたっていうのは、ジャスティンそもそも日本語読めないからじゃないですか。つまり何が言いたいかというと、エゴサーチって、してもいいけど、「エゴサーチしてる」ということをあからさまに発信するのは、結局自身に対する発言や議論をけん制していることに他ならないんじゃねえの?っていうことです。そういうことをしてると、みんな、商業的な、おっきいところの話しかできなくなる。キュンチョメのことを書きたいと思っている人たちについても、「あんまり適当なことを書くと本人、およびその周辺のセンモンカに読まれちゃうんじゃないか」っていう気持ちが、素人批評を委縮させてると思うんです。それはキュンチョメだけじゃなくて、世の中のあらゆる「過渡期」にある表現者についてですけど。インターネットを駆使しすぎることの弊害というか。「先生目つぶってるから」って嘘ついておかないと、みんな手を挙げないんですよ。それを薄目開いて見てりゃいい話で。
 ただでさえ現代美術って「どう解釈していいか分かんねえ」ってなる分野で、苦笑いで通り過ぎたくなるじゃないですか。それはおそらく、みんな「作品には裏付けがある」ってなぜか信じているのが問題だと思うんですけど。分からない、ということが、イコール知識不足だと思い込んでしまう。はっきり言って、若手現代美術作家なんて馬鹿ばっかりだし、たしかな裏付けなんてどこにもない。
 美術家の、おそらく最も重要な仕事は、世界を可視化させることだ。つまり、「こんなんできましたけど」って言うところまで。しょせんあいつらは、僕たちが世界を見るための変換装置だと思っていい。眼鏡だとしよう。その眼鏡を掛けて見えたものをどう解釈して理解するか、あるいは見えたもののどの部分に注目するかは、観客次第だと思う。怖気づくことはない。だから、「あんたの眼鏡でこういうものが見えたよ」っていうのを、もっと言っていいと思うし。そんなもの、作品に対する感想ですらないのかもしれない。僕たちは眼鏡の造形を褒めてるわけでも貶しているわけでもないのだから。そんなつまらない仕事は、それこそ専門家に任せてしまえばいい。

 さて。他にもいろいろ書こうと思ったんですけど、時間も遅くなってきましたので、またにします。

 明日は後輩とお酒が飲めるような気がします。最近、「後輩に気を遣ってもらいながら飲むお酒が抜群にうまい」ということに気付いてしまって、いかんなあと思っています。