フルーツ・オブ・パッション

 こんばんは。

 先日、兵庫県立美術館に行ってきました。今日はその感想を書きたいと思います。そこでやってたのは、フルーツ・オブ・パッションという展覧会でした。この展覧会のコンセプトを簡単にいうと、現代美術のメッカ的なフランスのポンピドゥー・センターから、2000年代のイイ作品を集めてきたよ、っていう感じです。巡回しないので、兵庫県立美術館でしか見られない展覧会です。3月23日までやってるそうなので、みなさんぜひ行ってみてください。

 さて、まずこの美術館の建物じたいが、安藤忠雄の建築っつーことで、べつにぼくは安藤忠雄好きではないんですけど、建物好きには楽しいと思います。海の近くにあって、屋外に彫刻とかもあるので、環境がとても良いと感じました。

 今日は、フルーツ・オブ・パッション展のなかの、イントロダクションと題されたすでに巨匠っぽい位置づけの人たちの作品について書きます。なんていうか、実物を見ない人に配慮してかくので、イメージしてください。で、面白そうだったら兵庫にGO!
 あ、太字の人は今回の展覧会に出品してた作家です。

 フルーツ・オブ・パッションの入り口には、ダニエル・ビュレンという人の作品があります。チケットをもぎる係員がいる場所より前にあるので、作品に気付かない人もいたと思います。ビュレンという人は、幅8.7センチのストライプを使った作品が有名な人です。というか、ぼくはそれしか知りません。入口の壁が、どーんとでかいんですけど、一面このストライプで塗られているのです。幅8.7センチのストライプを、もう1965年とか1967年からずーっと使ってるのです、この人は。色の指定は、必ず、白ともう一色。今回は、白とマゼンダでした。そして、一度使った色は二度と使わない、という決まりがあります。
 これが面白いのは、何気ない壁を視覚化してる、ということです。壁って、ふだん作品じゃないでしょ。たとえばサンゲツの壁紙とか、どんだけオシャレでも実用品で、アートではないじゃないですか。そういう壁っつうものを、いまいちどあらためて意識させよう、という目論見ですよね。それもきちんとした作法で、ルールを作って、何十年もやる。それが面白いなあと思いました。
 ちなみに、幅の指定、ということで思い出したのは、マーク・ロスコです。ひじょおおに抽象的な絵画を描く人なんですけど、この人は絵画を壁に設置する高さとか、見る人と絵画との距離とかにすごくこだわった人です。床から○○センチの高さに置く、とか、○○センチ離れて見てね、とか指定したこともあった。こういう、キャンバスと見る人の関係性、っていうのは、現代美術によくある主題ですね。

 んで、そういうキャンバスの中だけにとどまらない、キャンバスと空間に主題をおいた作品は、もうひとつロバート・ライマンの作品がありました。白の画家、って言われてるらしいです。なんか、かっこいいね。この作品は、絵画で、ほぼ正方形に見えるんですけど、キャプションを見ると若干縦が長いんです。223.5 x 213.5 cmとあるので。キャンバスの大きさって大事なんですよね。作家は、一ミリ単位で意図するんでしょう。さらに、この作品は、(美術館の)壁に固定する留め具まで指定があります。この金具で四点を留めて展示してね、っていう。これはおもしろいですよね。ここでもやっぱり、作者の意図はキャンバスの外に(も)あるんです。
 ちなみに、そういえば、福田美蘭っていうひとには、三面の交わる部分、つまり部屋の壁のすみっこにフィットする立体的なキャンバスに描いた作品がありました。美術館って、絵のなかだけを見ていちゃだめだったりするんですね。なんでその位置、場所にあるのか。どのようにその場に存在しているのか、考えるのが楽しいのかもしれません。

 白の画家、にたいして、黒の画家、と紹介されている人もいました。ピエール・スーラージュという人です。この人の作品もキャンバスなんですけど、はしっこ以外はほぼ黒の画面に、細い白い線がスーッと横に四本、走っています。そうすると、人間は、目線を左右に振られながら画面を見ることになるのです。こういう大胆なことを取り入れているのも、おもしろいですよね。絵の見方を、絵が規定してくる、っていう。それを非常に、わかりやすく端的にやってる。で、そうやって見ていくと、黒も一色ではなく、非常にむらがあることに気が付きました。それだけです。

 サイ・トゥオンブリーの作品も見ることができました。今回の作家の中ではいちばんの大物ではないでしょうか。作品は絵画です。このひとの作品は「詩的」だとよく言われます。リルケの詩が好きだったそうです。らくがきみたいだけど、クレーみたいならくがき感とはまた全然違う、もっと抽象度が高い感じで、なおかつ見るものに与える印象には個人差があまりない感じがします。

 ゲルハルト・リヒターのは、『グレイ』という作品がありました。何も意図しない、何も意味しない、という絵画で、まさに全面グレイです。ただ、表面はしわのようにごつごつしていて、均整がとれててきれいですが。
 これは作者のコンセプトが明確に示されてました。こーいうコンセプチュアルな作品っていうのは、コンセプチュアルっていうのは概念的な、とかいう意味で、つまり作者に明確な意図があって「こう考えたらおもしろいよね」みたいな確信があって作ってる、ってことだと思います。あるいは「こういう見方を提示します!」みたいな。見た人が「そう考えて作ったのかあー!」って思うようなね。そういうことできるには、やっぱりたくさん本を読んで、いろんなことを知識としてもってなきゃいけないわけです。じゃないと、「あいつの考えをしりたいな〜」ってみんな思わないから。「どういう考えがあってこれを作ったんだろう?」って見る人が思うためには、やっぱり「何かを考えているなあこいつ」と確信を持たれる人間にならなきゃいけないのです。そのひとに寄り添って考えた結果適当の産物だったら、むかつくし。そういう意味で、作品には誰が作ったかってことがすごく重要だと僕は思います。

 あと、絵は、勉強をさせてくれるものでもあります。あなたのいままでの人生のものの見方では、見れませんよ、っていう絵は、やっぱりおもしろいのです。見るという行為は、常に「理解した気になりたい」っていうエゴと同時にあるもので、つまり非常に傲慢なのですね。そういうこちらの見方を、ドーンと突き放して拒んでくる絵を見たときに、つまんないと思ったら負けな気がしませんか。その作家の人生を知って、その作家が愛したもの、読んだもの、考えたことを知っていくうちに、その絵の見方が変わったりする、その過程が僕はおもしろいと思います。つまり、最初からおもしろい絵はおもしろくなくて、その絵が自分のなかでおもしろくなっていく過程がおもしろいと思うのです。

 
 さてと。正直、ねむすぎて途中から何を考えているのかよく分からなくなってきたので、寝ます。もう、このブログも、そろそろ自分の独り言みたいになってきている。ちなみにイントロダクションにはあと一人、アグネス・マーチンの作品もありました。六人全員の紹介が終わったので、おやすみなさい。また続きを書くかもしれません。