どういうふうに好いていたいか

 「好き」と「好いている」は違う。

「好いている」っていう言葉が共通語なのか、まずそこからはっきりしない。はっきりしないし、辞書的な定義ではっきりさせようと思っても、僕が思っている「好いている」っていうものと一致しないかもしれない。
「好き」っていうのは思いこみかもしれない。嘘かもしれない。それは、なにか自分のなかのはっきりとした意志のようなものが、嘘か本当か明確な判断をつけれるうちに、さしあたり発した言葉のような気がする。
 だが、「好いている」はどうか。自分の心が思いもよらぬところで、勝手に何かに好意を寄せている。そんな自分に、第三者的な目線でふいに気がついたとき、その好意を「好いている」と呼ぶような気がする。

 だから、多分僕は、東京チカラめしのことを好いているんだと思います。

 高校の同窓会の、お知らせが来た。ありがたい。毎回返事もしないのに、高校時代ひとことも会話を交わさなかったのに、こうして誘ってくれているのは、やはり言葉を超えた、同じ校舎で三年間学んだっていう何事にも代えがたい貴重な体験が、僕と彼らのあいだにはあるんだよね。だから、ほんと、そういうご縁を大切にしていきたいし、感謝、感謝ですね、ありがとうございます。
「同窓会とお葬式は出ないにこしたことはない」っていうのがたごもり家の家訓でですね、同窓会、やっぱり「なんで来たの」ってなっちゃうんじゃないか、っていうかね、いや、いま現在の人間関係がほんと、ものすごく充実していて、感謝、感謝でですね、さしあたり、もう数年会ってない人たちは、とりあえずいいかなっていう、あとまわしあとまわし、っていう、一休でいう「ひとやすみひとやすみ」みたいなね、そういう心境がないわけでもない、というのはあります。

 あと、気がつけば僕は中学校の250名ほどの学年の同窓会長という役職なんですけど、これはもう、圧倒的に、逃げます。絶対、仕事、しませんから。副会長には、もう、「死亡説流して」って、お願いしてある周到ぶりですから。俺は、中学校の同級生250名だったら、全員ですよ、全員、敵に回しても、勝てる自信、あるので。なにに、勝てる、っていうのか分かりませんが、とにかく、僕は、働きませんよおおおお。一ミリたりとも。あのね、卒業式の当日に、軽いノリで「お願いしていい?」「いいっすよ」っていう口約束で交わされたものに、そんな効力、ないし。もうね、あれは、場の暴力。
 ちなみに、いま僕のまわりにいる、みんなには、一人でも敵にまわられると、僕、死んじゃうけどね。
 同窓会をけなして、「アンチ同窓会」みたいな人を見ると、悲しいじゃない。ああ、この人、友達いなかったんだーって、思うじゃない。友達いないっていうのは、やっぱり、すげー悲しいことよ。最近、友達いないって、大声で言える社会になって、なんていうか、それはそれで、言ったもん勝ち、みたいな風潮があって、嫌だ、というかさ。友達いない、って言えるのって、やっぱり、強い人だし。強い人の、特権だし、友達いない宣言、っていうのは。で、強さって、やっぱり愛されてる人しか、もちえないものだ、って思うし。つまり、本当に友達いない人は、芸術家を除いて、友達いない、って、言えないと思うから。
 なにが言いたいかって、俺は芸術家なので、友達がいないってはっきり言えるかっていうと、そうではなくて、芸術家ではあるけど、弱い人間なので、ともだちは、いざるをえない。し、いざるをえない、と、いわざるをもえないですよ、やっぱり。
 高校時代、三年間、同じ空間にいて、全く話さなかった人たちと、今更会って会話が弾むって言うのは、そーーとーー、寂しいものがありますよ、やっぱり。三年間の、一日一日を、無駄に過ごしていたという事実を、知りたくないですよ。「なんだ、話してみればいい人たちだったんだ」と思うのは、めちゃくちゃ恐いって。見てますもん、あの頃の自分。裾が破れた学ランに、脂だらけの髪の毛で、半目開いてこっち見てますから。「え、お前、仲良くすんの?」って。「俺、あいつらが嫌いで嫌いで、毎日一人で釣り行って、カラオケ行って、図書館行ってるんですけど」って。あのころの自分を、一人にさせてしまうのは、やっぱり辛いですよ。だから僕は、あくまでも過去の自分の、味方であり続けないと。あの頃の自分は、もはや、死ぬことすらできないんですよ。生きちゃったんですから。生きて、ありがとう、いまの自分っすから。最後まで、付き添ってあげなきゃ、って思ってます。だから、本当、いろんな人に会いたいし、いろんな人と今の自分は楽しくおしゃべりできると思う、それは事実なんだけど、ごめんね、っていう。もっと、僕にとってもっと、大切な人がいるんだ、っていうことです。