かいがいにはたいがいこりごりだ!

 みなさんどうですか。元気ですか。

 最近、なにか世間を騒がすニュースがあると、すぐ「こんなのは日本だけだ」「海外ではありえないことだ」みたいな論法でくるやつが多くて、辟易しませんか?


 知らねえよ海外のことは。


 いや、分かってますよ。グローバリゼーションが進む昨今、インテリジェンスたちの間では「いかにして国際社会の中で足並みをそろえるか」が重要なのは。目立っちゃいけない、野蛮だと思われちゃいけない。でもね、なんでもかんでもすぐ海外と比較して「日本の民度(この言葉めちゃくちゃ嫌いなんですけど)が低い」だの何だの言うのは、さすがに愚かだと思いますよ。

 まず、暇があって頭もいい人たちは、いろんなことを考えるときに常に「海の外」を視野に入れてるんでしょうけど、そんなことしてる暇もなければ教育も受けてない人たちがごまんといるわけでしょ、日本の中に。そんな人たちに「海外ではこうなってるんだ!」みたいなことを偉そうに言いふらしても、意味ないですから。

 次に、「海外」って一概に言いますけど、それってどうせごく一部の欧米諸国のことしか言ってないでしょ? みんなちがってみんないい、ってなんか有名な人が言ってたけど、この地球は圧倒的多数のマイノリティたちによって構成されてるわけでしょ? よく分からんけども。こないだも、「反省したら自主的に坊主にする」っていう日本の文化に対して、なんか偉そうな白人様が「ありえない、理解できない」って言ってましたけど、もし同じ文化を西インド諸島かどっかの少数民族が持っていたら、どうせ「興味深い文化だ」て言って感銘受けるんでしょうが。その程度のものなんですよ、文化、なんてものは。だいたい、こっちだって「靴で居間に乗り上げる」とか「ゲロみたいなオートミールを食う」とかいうよく分からない文化についてオールオッケーで受け入れてはいないわけで、よく欧米人は日本の納豆のことを「Oh, Kusatteru!」みたく言いますけど、日本人からしてみたらオートミールもわりと「ゲロ」なのであって、もうそこのところはお互いさま、理解し合えないっていうことが理解出来たら終了、ってことなのではないでしょうか。
 もうね、過剰。日本人の、欧米諸国に対する「屈します」感は。「国際社会では英語しゃべれよ」「ハイッ!」感は。卑屈。国民総「栗原類」状態。おなじようなことをこの記事でも書いたな。

 まあ、外の文化と比較して、自国の「これって時代にのっとってないのでは?」っていうところについては緩やかに変えていく、それは大切だと思います。手本にすべきところはたくさんあると思うし、そういうところを指摘できる人たちがグローバリゼーションの中で増えてきた、っていうのはありがたいことなので。

 それにしても嫌いだなあ、「民度」っていう言葉。「度」っていうのが「レベル」を思い起こすから嫌なんだろうけど。たとえば、一つの国でも時代とともに「ゴミを散らかさなくなったり」「様々な合理化が進んだり」するけれども、それって必ずしも一方向の「発展」ではない気がする。たまたまその方向に進むことが多いから、それを「発展」というかたちで呼んでいるけれども、その「before」が「民度が低」くて「after」が「民度が高」い、なんてことは誰が決めるのかよくわからないのです。たぶん、先にその方向に進んだ国が勝手に決めちゃってるだけ、みたいな気がする。

 昼間から、暇を露呈してしまったぜ。