メタメタ

 メタ、という概念がある。

 ここはそんなに頭がいい人が書いているブログでもないし、そんなに頭が良い人たちが読むブログでもないから、専門的な解説はできないし、しなくてもいいと思う。で、メタっていうのは、まさに今「このブログはこうこうこういう性質がありますよね」っていうことを言及した、そういう「表現のしかた」のことを言います。「今日こういうことがあったよ」っていうんじゃなくて、「今日はこういうブログを書きます」ってブログに書くこと。入れ子構造にすること。

 まさか、ここまでの内容で既に脱落した人はいないと思うけど、一応、今回のブログは「メタってなんぞや」っていう人のことを想定して書いてますので、がんばって読み進めていただきたい。

 ほら、実はいままたメタ的な言及をしたんですよ。気付きましたか? こういう言及にいちいち気付くことができる人のことを、「メタラー」と言います。言いません。

 たとえば、学校の勉強が楽しい、楽しくない、ということを考えている子どもがいます。そしてその子は、楽しい授業ははりきって受けるけど、楽しくない授業は寝てしまいます。当たり前ですね。
 その子は、「楽しい」「楽しくない」という分け方で授業を過ごしているわけです。しかし、その二分はいずれも「勉強する(こと)」というメタ的な条件から出現しています。
 では、この子の学力を上げたいというときに、どうすればいいのか。僕の考えでは、「楽しくない」を「楽しい」に同一の次元で移動させるのではなく(その教科を楽しくなるように工夫するのではなく)、「楽しい」「楽しくない」に共通している(つまりメタ的な)「学ぶこと」そのものを楽しくさせることが重要なのです。
 つまり、学校という場所は「学ぶ場所」という前提のもとに存在しているわけですから、「学校の有用性」とか、「学ぶ意味」とか、そういうものに疑問を呈する場所ではありません。言ってみれば、「学校で勉強することがどのように有意義なのか」という「メタ的な」ことについては言及してくれないのです。
 そこで大切なのは、自分で「学校」という場所を「メタ化」することです。「勉強が楽しい」「勉強が楽しくない」をメタ化すると「勉強をすること」が出てきます(つまり「楽しい」も「楽しくない」も授業に出て席につくところは同じなのです)。そして、「勉強すること」(と「勉強しないこと」、席にもつかないこと)をメタ化すると、「勉強をすることそのものの意味」が出てきます。
 このようにしてメタ的な思考をすると、「楽しい」「楽しくない」という区分は、実は「勉強をすることそのものの意味」から派生するさまざまな要素の末端にすぎないということが、分かると思います。(さいご具体例も挙げずに雑に終わる)


 つかれた。

 僕はなにを言っているんだろうか。

 でもとにかく、「メタ」には世界を見る鍵が詰まっていると思っています。このブログもメタ的な視点から始まった気がする。