イモ☆エッセイ

そろそろ石焼き芋がおいしい季節。

残念ながらあまり好きではない。どうしても半分くらい食べたところで、もういいやってなってしまう。なんだろうか。あのパサパサ感というか、口に残る感じが、あまり好きでない。あまり呑み込めないし、喉が渇く。しかし、なぜか嫌いにはなれない。


好きでもないけどそんな嫌いでもないね〜とは、食べ物の好みを聞かれたときのメジャーな回答だが、僕の中で最も「好きでもなくそんな嫌いでもない」食べ物は間違いなく、イモだ。

イモは、食べ物を人に見たてるとすれば、すごくいい人に見えるだろう。何よりイモという発音の柔和さというか、包み込んでくれそうな柔らかな存在感、そして紡錘形の落ち着くフォルムとか、そういうのが、イモの「いい人感」を出しているのだろう。

だから、こっちとしても、あんまり大声で「嫌い!」というのもなんだか申し訳ないというか、そんなこんなで、僕のイモに対する付かず離れずなニュートラルな距離感が次第に形成されて来たのだろう。

ただ、北海道の大通公園で食べたジャガバターはすこぶる美味しかった。ああ、ジャガイモはこんなにうまいのかと子ども心に味をしめた僕は、翌日別の店でもジャガバターを注文したのだが、それが運の尽き、そのジャガイモは、ここで会ったが百年目とばかりに、エグかったのよ。その瞬間、ジャガイモは、ニュートラルな食べ物たる資格を僕から剥奪されたのだ。ニュートラルな食べ物であり続けることは意外と難しいようだ。

その点、サツマイモはどうか。あの粉感と呑み込みにくさを持ちながら、なおもあの甘みで媚を売ってくる感じは、憎めないというか、なんとも絶妙にニュートラルで、あっぱれと言わざるを得ない。

あっぱれといって誤解してほしくないのは、僕はなにもニュートラルであることがよいことであると言っているわけではないということだ。ニュートラルはあくまでニュートラルであり、良くも悪くもない。
ここまでニュートラル感を極めておきながら、結局のところなんの評価も得ていないところ、ニュートラル感に拍車がかかるというものだ。

でも、石焼き芋にバターをぬって食べると、おいしい(*^^*)