『就職戦線異状なし』

 っていう映画があるらしい。観てないけど。
 1991年に公開された映画らしいが、今だったらタイトルは『シューカツ戦線異状なし』とかになってたと思う。いつにもましてどうでもいいね。
 つい先ほどまで会田誠のエッセイ集『カリコリせんやと生まれけむ』を読んでいたせいで、文章を書くにあたっての倦怠感がいつにもまして両肩にズシリと重たくのしかかっています。でも、書きます。今日はいつにもまして1200字のゴールが遠いです。
 
 いつにもましすぎいい。

 そうそう、会田さんがその本のなかで「パーソナルな深夜の呟き」と「パブリックな昼間の発言」の違いについて、まあ簡単に言えば「いま自分が語っているのはどちらかってことを分かっておく必要があるよね」みたいなことを書いていて。で、このブログの文章のことを考えてみたときに、更新時間とか見てもらったら分かるでしょうけどだいたい深夜で、しかもこのクオリティーだから、もう圧倒的に、光り輝く「パーソナルな深夜」であるわけじゃないですか。まあ自覚してるから勘弁してよ、ってことなんだけど、問題はこの文章が読まれる場所は読者次第、というか、パブリックな昼間であっても全然問題ない、ということなのです。なんなら、国会議事堂とか、皇居とか? もっとワールドワイドにタイムズスクエアの前とか、天安門広場とか、わかんないけど、そういう「Ustreamなう」みたいな白昼のパブリック感のあるスペースで読まれることもあるんだなあと、それってちょっとやだなあと、思うわけです。

 で、ここまで書いてる途中で人から電話があったり寝たりしたせいでもう半日くらいかけてやっとここまで書いた有様で、タイトルにもあるシューカツについての話をしようと思っても昨日の自分は一体なにを書こうと思っていたのか分からなくなっています。あ、そうそう、昨日知り合った人とシューカツについていろんな話をして、それが結構印象に残っていたんだった。
 その人は中高時代に運動部でそこそこ優秀な成績を修めていて、自分のことを「やるからにはきちんとやり抜く性格」みたいな感じでとらえていて。それは話している感じで僕にもなんとなく伝わってきたからほんとなんだと思う。で、就職活動をするにあたって、なにか「これがやりたい」っていうことが無いらしくて、一度始めたら自分をいじめ抜いて続けることに慣れてる人だから、何をやるにしてもやり抜いちゃうと思う、だからこそ中途半端な気持ちでどこかに就職して、その仕事を続けていくっていうことができない、と。まあ、そんな感じのことを言っていたと思うんだけど(酒飲んでたから、記憶があいまい)。
 んで、それ聞いて俺は、会社ってそういう人材こそ求めてるんだろうな、と思った。で、個人としては、そういう考え方って生きづらそうだなって、正直思った。
 僕はどちらかというといろんなことに手を出して、でもって嫌なことはすぐ投げ出してしまうタイプで、「継続は力なり」という言葉で泥遊びをしたあとの爪の垢を煎じて飲もうかというくらいのもので、まあ言ってる意味分からないと思うけど、とにかく「辞める」ことに躊躇ない人間だと思う。そういう自分が好きかどうか、っていうのは置いておいて。なんだろーな、みんなで何かやんないと達成感を得られない、っていうのはあるしゅ現代人がかかえるやまいなんじゃないかなあって、思ってるふしがあるんですね。
 で、ここまでだらだら駄文を書いてきて実のところの言いたいことを下のほうに忍ばせるという手法をつかっていますので、まあここまでちゃんと読んできた人は一人二人しかいないんだろうなと思って書きますけど(あ、体力なくて飛ばし読みしてきた人は2ちゃんねるにでも行ってください!)、サークルとか部活とかの話をすると、なんか集団のなかで個人のちっちゃなベクトルが一斉に同じ方向を向くことで一つの大きな矢印となり、それにそぐうことでほぼオートマチックに「大会」とか「発表会」とか、そういう晴れの舞台に行くつくわけじゃないですか。で、それにはぐれないのが「自分の意志」なのか「はぐれることへの恐怖心」なのかっていうのが問題の本質で、そのためにやっぱり「週に何日」「何時から何時までみんなで集合」みたいな形で拘束されて、それが大学生なんて四年間とか続くわけで、そういうのやり抜くのってすごいなあと思う反面、「そこまでやんないとアイデンティティ確立できないのねーん」っていうのがものすごく小声で僕の中に主張としてあるのです。だって、サークルとか部活を週3以上でやってる人って(あ、僕はそういう人たちのことを心の中で勝手に「週三族」って呼んでるんですけど)その集団の外部でもその話ばっかりするんですね。自分がそのサークルやら部活やらで頑張ってる話、大変な話、役回りの話。で、そういう人の話が一概につまらないって言いたいのではなくて、「あ、この人からその集団を抜いたら、この人になにが残るんだろうな」って思って、そう、怒りとかじゃなくて、単純にさびしい気持ちになるんです。現に、生活のなかのほとんどの時間とエネルギーをサークルとか部活とかにかけてきた人が、ひょんな人間関係の問題とかでその集団を抜けて、「もぬけの殻」みたいになっちゃってる様子を見たことが少なからずあって。なんだろう、「集団」にいることで仮想的に与えられていたエネルギーが、実は個として存在していたものではなかった、みたいな? そういう状態ってすごく残酷だと思っているので、だからこそ集団の中でバリバリやれている人を見ると「ああ、この人は集団の中でしか生きられない人なのかもなあ」って感慨にふけちゃいます。で、自分はそうではありたくないな、と。自分ひとりのちっこい矢印だと、進む方向性の舵取りも自分でしなきゃいけないんだけど、それでも差し引きゼロの自分っていうのをいかに愛していくかってところが割とシンプルで分かりやすくて好きなんです。
 で、就職とか「会社」ってこととかにも、この話は割と拡張できるかなって思います。
 でもまあ、集団じゃないとできないこともあるからなあ。普通に素敵だと思いますけどね、組織って、やっぱり。