今日は選挙の日

 最近、肩肘張った文章ばかり書いていた気がするので、今日くらい馬鹿は馬鹿らしく、しょうもないことを書こう、なんて思っていたのですが、選挙ですね、選挙。

 選挙に関しては、本当は「選挙なんて行かないぜ、俺は公園でスケボーしてるYO!」みたいな若者が多数派で、けど世の中のみんな幸せ、みたいなあり方が一番良いと思うんです。まあ、若者に限らず「公園でゲートボールしてるのJA!」でも何でもいいんですけど、とにかく完全に他人まかせで上手くいくなら、そのほうが楽だしね。でも、流石になんというか、今の世の中、そんな悠長なこと言ってられない気がするんですね。原発やTTPはもちろんのこと、社会保障外交問題憲法どうするとか消費税どうするとか、考えることが山積みだなあと思うわけで。で、そのすべてに精通して意見を言えるかっていったらそりゃ無理なわけですが、二十年以上生きちゃって、まあそれなりに過去の経験や、学んだことや考えたことから、「やっぱりここはこうでしょう」と思うところはあるわけでして。それらはあとから振り返ったら間違ってるかもしれないけど、さしあたって今の自分の「ここはこうだと思う」っていうのはしっかり示したいです。社会に対してもそうだし、自分自身に対して。あとからきちんと後悔したり、もっと勉強しようって思ったりできるように、っていう、そういうところも含めてね。

 で、これは大学の先輩が言ってたんですけど、選挙って「これからの日本をどうするか」ってこともあるけど、それと同時に「今後の自分の生活がどうなるか」っていう問題にも直結するよね、と。その通りだなあって思いました。
 やっぱり、自分がどれだけ社会的に「生きやすく」あるいは「生きにくく」されてるか、っていうのは、知っておいたほうがいい気は、します。で、そういうところを主張していくのはエゴでもいいんじゃない、エゴとエゴをぶつけてお互いの妥協点を探していこうよ、っていう気持ちもあります。

 一昔前だったら、「選挙? 行かないっす」なんてのが流行ったかもしれないけど、今はさすがにそこまで平和な時代じゃないと思うので。選挙公報を隅から隅まで読んでなお選挙に行く意味を見出せないとしたら、正直そいつに関しては「?」って思いますよ。「この人の周りは平和なんだなあ」って、ほのぼのもしますけど。まあ、議会制民主主義を根本から否定して国家をまるごと転覆させよう、みたいなことを考えてる人も選挙には行かないのかもしれないけど。違うか。

 僕は「ワールドカップ期間中だけサッカーを熱く語る日本人」みたいなのはあまり好きではないですが、「選挙期間中だけ政治を熱く語る日本人」はもっといても良いと思うのですね。サッカーのときは大して詳しくなくても「右サイド上がれ上がれ!」とか「オシムー!」とか言うくせに、選挙となると「いやあよく分かんないっす(半笑)」みたいに急に謙虚になるのは、いかがなものかと。ヤンバラバラ、エンタイナエーヤ、エーヤ〜(ワールドカップのときの変な歌)。てかさ、正直な話、普段そこそこものを考えてる人であれば、選挙公報を読んだら分かるでしょ、こいつオッケーとか、こいつアウト、とか。あと、たまに「俺は人相を見ればそいつがどういう人間かだいたい分かる」とか豪語してる奴がいるけど、そういう奴は選挙でこそ、その能力を存分に発揮するべきだと思うのですね。だって、政治について素人でも玄人でも持ち票は同じ一票なわけでしょ。顔面の一票も政策の一票も、同じ重さよ。人相で人を見抜く能力、みたいなものも、政策で政治家を見抜く能力と同じく、重要なわけですよ。ほんとにねえ、それぞれ自由な観点で、自分の信じる尺度を使って社会を動かせるっていう、だいぶミラクルな制度ですよ、選挙っていうのは。たぶんね。もうね、言っててわけが分からないですよ。

 とりあえず、選挙、行ったらいいんじゃないかなあ。ワールドカップみたいなノリで。だめかね。

 あ、個人的には、最高裁判所裁判官国民審査公報、あれは裁判官の「関与した主要な裁判」「判決にあたり心がけていること」なんかが載っていて、面白いですね。判決の他にも「判決に対する反対意見」も載っていたりして、かなり具体的に裁判官の考え方が読み取れる気がします。自分で「趣味」の欄を作って「モーツァルトを聞くとモーツァルトさんが隣に座って話しかけてくれる」とか書いてる人もいるし。そういう不思議ちゃんがハンマーで机をたたきながら「死刑!」と宣告する法廷を想像してみるひととき。あれ多分ハンマーじゃないけど。

 豆知識なんですけど、投票所って朝一番乗りすると「投票箱の中身が空かどうか確認する作業」をやらせてもらえるらしいですよ。
 さて、寝ます。