『私は生まれなおしている』

 たまには真面目に書きたい日もある。今日はここから始めよう。20世紀のアメリカを代表する、偉大な批評家であるスーザン・ソンタグの著、『私は生まれなおしている』(原題『Reborn』)の引用から。この本は、15歳からの長きにわたりソンタグがプライベートに書き記した百冊近くの日記帳を、彼女の死後、その息子デイヴィッド・リーフが編纂し、出版されたものだ。日本では河出書房新社から訳書が出版されていて、翻訳はソンタグではおなじみの木幡和枝氏である。

書くこと。善し悪しを云々し、ひとの道義的な水準を高めようだなんて意気込んで書くことは堕落につながる。
(中略)
書くことはなぜ重要か。主要には、自己中心的な気持ちから発することだからだろう。私がそういう人物、つまり作家になりたいから書くのであって、何か言うべきことがあるから書くのではない。でも、それがあっても構わないのではないか? 少々の自我構築――この日記によって成就した既成事実もそう――のおかげで、私もうまく切り抜けて、語られるべき何か、言うべき何かが(私には)ある、と自信が持てるかもしれない。

 これは1957年12月31日の日記、つまりソンタグが24歳のときの文章である。なにも、この一節をもって彼女を「早熟だ」と言うつもりはさらさらない。彼女の文章は、十代のころから卓越して批評的であり、かつ自己反省的でもある。このあとに続く文章もすごくいいのだが、面倒なので引用しない。

 引用の内容について、説明を加えようと思ったが、それも面倒くさいのでやめよう。まあ、何が言いたいかというと、僕はここに書かれていることにすごく同意する、ということかな。人は、何かを書くときに、もっぱら自己中心的な意識からそれを書くのだ、ということは、やはり何かを書いたり読んだりするときの前提だと思う。そしてソンタグは、人の道義をうんぬん言おう、なんてことはやはり考えないで文章を書いている。彼女はただ本を読み、音楽を聴き、写真を見て、考えることをやめないから、そのたびに自分のなかに言葉があふれてくる。そうしてあふれ出た言葉は、自己を中心として現れたものに他ならないし、ひとの道義をどうこう言えるものではない。さらに、自分の思いを言葉にしたときに生まれる(もしかすると一番の)恩恵は、次の言葉を生みだすにあたっての自信である。僕はこの引用箇所を読んで、そう考えました。で、このメンタリティは文章を「書き続けざるをえなかった」たくさんの文豪たちに共通しているものではないかと睨んでいます。

 さて、難しい話はそろそろやめましょう。僕がこのソンタグの日記を読んだときに確信したのは、簡単に言うと、中二病を経てなおも表現を止めきれなかった人間は、強い! ということなのです。
 日記の中で、思春期のソンタグは、とても青臭いことを書いていたりします。たとえば、1948年12月25日の日記。ソンタグ15歳。イタリックは原著のまま。

この貧弱な殻が破裂するほどますますふくれあがる――今ならわかる――無限性について思う――意識をひっぱるとその作用で、抽象化の単純な感覚とは正反対の感覚が生まれ、恐怖が薄められる。それでも、私には放出口がないことを知って、どこかの悪魔が私を苦しめる――痛みと怒りをいっぱいに注ぎ込んでくる――恐怖と震え(捻れ、疲れ果て、極限まで呪われた私――)におおわれた私の意識は、制御不可能な欲望の痙攣に征服される――

 で、その約一週間後、12月31日。

ノートブックを読み返す。まったくうんざりだし、単調だ! だらだらとして自己憐憫から、どうしたら抜けだせるのか? 自分の全存在が緊張しているようだ――何かを待っている……

 どうですか、この青臭さ。まあ、彼女はこの歳にして、この前後の日誌に「読むべき本」としてドストエフスキーアンドレ・ジッドの小説、ダンテやランボーの詩を挙げて、さらにそのようなものに関して様々な批評を書いてますし、その他僕なんかは聞いたこともない(そしておそらく一生読まないであろう)作家の名前がめちゃくちゃ大量に挙がってますけどね。

 で、まあ、こんなところを引用してなにが言いたいかというと、昨今の巷にあふれる、中二病を馬鹿にしたような言動や雰囲気は、教養がなく中二的幻想を幻想のままで終わらせてしまった人たちの哀れな自己肯定にすぎない、ということです。これはもう、間違いなく。中二病は、思春期における自己理解や、思考の枠組の形成において、極めて重要な役割を持っているのではないでしょうか。そして、中二病っていうのは、病気ではなく、むしろ精神的にはとても良い状態だと思うのです。感性の豊かさや、発想の大胆さ、開き直った自己中心さ、等々において。ソンタグなんかもそうですけど、知識人たちにおいて後年中二病が「なくなった」かのように見えるのは、その青臭さが実際に「喪失」したのではなく、単に理性や知識、教養がその青臭さに追いついただけだと思うのです。
 で、僕が危惧するのは、中二病を単に「黒歴史」として過去に置いてきてしまった、教養のない凡人たちが、そのように非常に重要な通過儀礼である中二病について馬鹿にする言葉を吐いたとき、それと同時に、中二病であり続けたまま生きていけるような天才のたまごたちを否定して、無理やり「凡庸な」「みんなと同じような」精神の持ち主にしてしまうこと。そうすると、天才がたまごから孵化してこなくなる。そしてこれは、実際に起きていると思います。

 ふう。なんだか堅苦しい話をしてしまったね。簡単に言うと、青臭さに教養が追いつかず中二病黒歴史として「喪失」せざるをえなかった凡人どもは黙ってろ、ってことなんですけど。いやだいやだ、暴力的なもの言いは嫌だね。でもまあ、どおせ伝わんないから、いいやあ。本当は、こういうことは「毎日更新」のノート的ブログに書くことではないんだけどさ。まあ、雑な走り書きとして、残しておきます。今回最後まで読んでくれた方は本当にありがとうございました。