言葉のヒット率

 具合が悪い。

 具合が悪いなら、ブログなど書いてないで早く寝ろ、という意見もあろう。そして、「ブログを書く元気があるなら他にやるべきことがあるだろお前!」という意見、それも、もっともである。もう、みなさん、もっともすぎるほどもっともなのである。僕が世界もっとも委員会の会長だったら、日本を常任理事国にするくらい、日本のみなさまはもっともである。もっとも、もっともなのは日本の人たちに限らず、海外の人たちもそれなりにもっともなのであろうが、僕は外国語がさっぱり分からないのでもっともなことについてもっともであるという判断ができない。もっとも、これは残念なことである。

 うざい。

 書いてて分かる。僕の文章、うざい。通常、人になにかを伝えるべく文章を書くときはなるべくうざくならないように、気を使って書く。たとえ送り先が部下であっても後輩であっても、できるならばうざく思われたくはない。しかし、ブログはどうであろうか。たしかに、読んでくれてる人たちの顔は、なんとなく知っている。で、その人たちが集合したような「概念」みたいなものにむかって書いてはいるが、ここでは自分のうざさを修正する必要が、必ずしもない。うざければ、読まなくて結構よ。そんな開き直りも、できないわけではない。
 しかし、僕がこのブログに書いていることについて、いつもいつもドヤ顔で「我面白き」と思いながら書いているともまた、思わないでほしいのである。今日みたいに、もう疲弊しきった脳みそと体にルルとユンケルとオロナミンを投与し、わけがわからなくなって書いている日もある。こんな日はもう、読み返すこともせずただ字数を積み重ねていくだけである。このブログは、本当に、なんの価値もない言論が、ただ漠然と積み重なっていくだけであり、いわばWWWのグラウンド・ゼロである。たしかに、責任はできるかぎり持ちたい。成人式を迎え、日本の将来を支える若者として、ひとつひとつの発言に責任を持ちたい。が、この責任という言葉について、やはり「語らぬ者」の負う責任と「語る者」の負う責任が平等であって欲しくはないのである。僕みたいに、わけもなくうわべだけの言葉をブログでペラペラと話してしまう人間でも、結果としてたくさんの言葉に責任を持たなければならなくなる。その現状が悲しいのである。簡単に言うと、十に一つ間違ったことを言う人と千に百間違ったことを言う人を比べた時に、間違いの数が少ないからって十に一つのほうが優秀とされてしまっては困るのである。そんな世の中、黙ったもん勝ち、みたいになっちゃうじゃないですか。僕はこれからできれば何十年と生きて、そのなかで出来るかぎり「言葉のヒット率」みたいなものを少しずつ上げていって、最終的には二割五分打てればいいかな、みたいな気持ちでいるのですね。そのためには打席にいっぱいたたなきゃなあと思うわけで、プロ野球で言うと20打数4安打のバッターと200打数40安打のバッターとではやはり後者のほうが圧倒的に良い年棒をもらえるわけで、それと同じようにとりあえずこうやって毎日バッターボックスに立とうとしている姿勢だけでも評価してくれよ、という気持ちはあります。

 何言ってるか分からなくなってきたので、もう寝ます。今日はすごい勢いで書きました。