性的指向について

 日本中のホームレスがある日突然消えて、二年後くらいにそのホームレスたちが全員、日本各地のドンキホーテの商品棚の裏からぞくぞくと姿を現わす、っていう現象が起こっても不思議ではないほど、ドンキホーテの店内はごちゃごちゃしている。
 ルミネにあべこうじの単独ライブを観にいったとき、「“激安の殿堂”ドンキホーテは、意外と高い」っていうあるあるネタを言っていた。たしかに、ドンキって実際はそこまで安くない。アマゾンのほうが安い。しかも、ドンキで売られているワックスって、ひび割れて「砂漠」みたいになっていることがある。
 とかなんとか言いながらも、結構好きだ、ドンキホーテ。ドンペンくんが、かわいいし。お腹に大きく「ド」と書いてあって、親近感がわく。

 わかねえよ。

 とにかく、ドンキホーテは楽しい。そして、店員の愛想が、意外といい。


 ところで。ちょっと真面目な話していいっすか。憶測になっちゃうところも多いのですが、なるべく丁寧に書きますので、ひとつよしなに!

 同性愛者っていますよね。異性愛者もいて。で、両性愛者も、無性愛者もいますよね。他にも様々な性的指向があるようです。で、まわりをざっと見まわしてみると、僕の周りには異性愛者が一番多い気がします。

 で、異性愛者たちからすると、同性愛とか両性愛っていうのは、「気持ち悪い」とされることが多いわけですよね。で、そういうのに寛容な人たちっていうのは、それに反発して、「そういう愛のかたちは、別に気持ち悪くないんだ!」って、言いますよね。そこで、ギモンなんですけど、例えば同性愛者からしたら、異性愛って、「気持ち悪い」んじゃないですかね?
 同性愛者たちが異性を好きにならないのは、異性を好きになる、という感情が「気持ち悪い」「理解できない」からだと思うのです。それなのに、僕たち異性愛者は、かんたんに同性愛について「気持ち悪くない」「理解できる」と言ってしまうわけですよね。

 なんだろうなー、「理解できない」と認めるところから始まるコミュニケーションも、あると思うんですよ。昨今の、異性愛者が同性愛者を「認めてあげる」「理解してあげる」という構図が、どうも薄気味悪いのです。そうじゃなくて、「俺は男と男がセックスしてるのは気持ち悪い」「私には男と女がセックスしてるのが気持ち悪いわよ」っていう意見が、対等にぶつかる社会、っていうんですか? そっちのほうが、ずっと自分の「性的指向」を隠さずに生きていけると思います。結局「性的指向」なんて「気持ち悪い」の裏返しでしょ、みたいな。

 僕はこのブログで繰り返し「理解することの無意味さ」みたいなものを書いてきたと(勝手に)思っているのですが、お互いが「(永久に)理解し合えない」という前提に立てば、「理解できない」ものを抑圧して排除しよう、みたいなことは、行きつかない気がするんですよね。口先だけの「理解できる」が蔓延して、実際の社会は変わっていかない、みたいなことにもならない気がする。お互いが「いつか理解し合える」っていう前提に立っているからこそ、結果として理解し合えなかったときに戦争が起こるんじゃないか、みたいな。だから、「いつか理解し合える」っていう幻想、というんですか、そういうものをいっそのこと捨ててしまえばどうか、とも思うのです。が、それってただ「ギスギスし合ったまま」という状態で放置、という結果も招きそうで、簡単ではなさそうですよね。でも、その「ギスギスし合ったまま」っていう状態が残っているということは、実はまだどこか「いつか理解し合える」という前提が残っているのであって、ほんとうに「理解し合えない」という前提をきちんとおけば、もはやギスギスもしないのではないか、とも思います。年寄りの夫婦とか見てても、そんな感じだと思うし。

 最後のほうよく分かんないっすね。間違ってる!ってところあったら指摘してくださいなー。