すてきなすてきなブログ

 ここ数日、ずっと家にこもっていて、それは大して苦痛ではないのだけれど、人と話しをしていなさすぎて、明日いきなり人に会って大丈夫かなあ、と思う。去年どんな顔で人と会っていたか、忘れた。正月をはさむと、なんだかもうずいぶんいろんな人と会っていない気がして、とりあえず新年一発目、みなさまと話しをするときのハードルとして、「去年ため口だった人に敬語を使っちゃわない」っていうかなり低めのを設定しとこうと思う。

 で、この数日間ネットサーフィンというか、ぶらぶらネットを散歩していて、久しぶりにかなりディープなところをウロウロできた気がする。ディープ、というのは、主に知らない誰かのブログのこと。僕は知らない人のブログを読むのが好きなのです。
 でも、ただたんにネットの海をさまよってもなかなか素敵なブログには出会えないもので、そこで僕は気に入ったバンドやアーティストの名前を検索する、ということを、よくやっています。
 自分の好きなものを同じように好きな人のブログって、読んでいて、すごくフィーリングが合うのです。で、ここ数日、同じバンドを検索してずーっと過去までさかのぼっていたんですが、そのバンドについて言及しているブログは、それ以外の記事も端から端まで本当に言葉のセンスが素敵で、いいなあ、いいなあ、と思いながら読んでいました。そこそこマイナーで、しかももう解散しちゃったバンドなんだけど。たぶん、自分と感性が合う人っていうのは、音楽のセンスが合う人だろうなあ、と思います。
 音楽は、あらゆる芸術のなかで、究極の芸術だと思う。

 僕も、理屈っぽいことをだらだらと書くこういうブログより、散文的な、というか、生活と思想の露出バランスが読んでいて心地のいい、瑞々しい文章が書きたい、と思う。ただ、たぶんそれができないので、寂しい。僕も音楽ができれば、それができたかもしれない。音楽を好きな人の書く文章というのが、すごく好きなのだ。

 インターネットの片隅に、ある日突然更新が止まったブログを見つけては、胸がざわつくとともに、そこにきらりと輝きを感じる。生きてるか、死んだのか、生きていてたとしても死同然の何かが起こったのか、僕には分からないが、僕はただそこに誰かが生きていた日常を見る。生きていたとしても、更新が停まったその時刻ちょうどに、僕が知りうる限りすべてであるそのブログの執筆者はもう、「死んでいる」。ただ、その彼や彼女は、僕と同じ音楽を聴いて感動し、僕の知らないステキな音楽を教えてくれて、僕と同じように生きていくことに苦しみ、そしてまた、生きていくことを楽しんでいた。
 ブログを更新しなくなったのは、おそらく、本当に死んだのではなく、人生ががらりと変わったからだ。もし彼や彼女が、相も変わらずあくせく毎日を生きていたとしても、きっと、ブログを書いていたころの彼や彼女は、とうに死んでしまったのだろう。それが良いことか、悪いことかは、僕には分からない。が、ブログのよさは、そこにあると思う。僕は、今も更新が続いているブログより、過去に更新が停まったブログのほうが、読んだあとに爽やかな気持ちがする。音もなく離陸して、いつのまにか遠くの空へ消えていった飛行機を、滑走路に立って、いつまでも眺めているような。
 ブログを書く人には、不器用な人が多いと思う。毎日をただ、なにも残さず、なにも記さず生きていける人というのは、きっと、強い。言葉は、誰も、器用には扱えない。語れば語るほど、もどかしさが募り、悲しみも増幅する。とくに、ブログなんてものは。けど、それをすることを生きるよすがにするひと、いや、せざるを得ないひとがいて、そういうひとたちは、とてもとても、不器用だと思う。

 いつか、このブログにも、終わりが来るだろう。わりと雰囲気を決めてカチッと始めたブログなので、いまのところカチッと終わるっぽいけれど、意外と近いうちに、僕の心臓が停まるとともに、更新も停まるかもしれない。そしたら、最後に残した記事が「人の悪口」だったりする可能性もあるわけで、終わらせ方としてはカチッとしているとは言いがたい。
 まあ、言ってみれば、誰にもわかんないんである。だいたい、まだ二ヶ月ほどしか続けていないブログだ。まだ読者もついてきている。これが数年後、となると、自信を持って言うが、もうみなさんはこんなブログ、誰も見ていない。たとえ今は毎日見ていたとしても(そんな人いないけど)、他人のブログの存在なんて、二日忘れ、そしたら三日目も忘れ、それが一週間になったらもう脳からほとんど消滅しており、一週間忘れたものは一ヶ月忘れるし、そしたらもう一年、二年と忘れていく。ブックマークなんか、意味はない。ブックマークは、新しいブックマークにとって替わられるだけだ。そうこうしているうちに二十年三十年と平気で時が流れ、二度と思い出さずに、七十年なら七十年、幸せな人生を送って、死ぬ。そんなものだ。すべては、過去になる。ちゃんと思い出になる過去なんてほんの一握りで、限りなくすべての過去は、思い出にもなれず、記憶から、つまりこの世から、跡形もなく、消える。

 もし、このブログを、僕のことなんかまったく知らない人、知らなくていい人が読んでくれたら、こんなにうれしいことはないなあ、と思う。死んだときはちゃんとうえだ君が「たごもりは死んだ」と書くから、安心して読んでくれたらいい。いきなりいなくなったときは、不器用に生きることを辞めたときか、文章でお金を稼げるようになったときだと思います。