たごもり、大いに女を語る

 女。男の反対、みたいな感じ。女性、と言うと、少し上品な感じがする。女子、と言うと、すこし幼い感じがする。今日の記事では、全編「女」で通していきたい。これでも根っからの九州男児として、女のことを「女性」などという軟弱な男どもは、積極的に蹴散らしていきたいタチだ。「酒と煙草と女性」。そんな言葉が通用するだろうか。あくまで女は「女」なのである。「酒と煙草と女」。これでこそ男、男冥利に尽きるぜ、という感じがする。
 もちろん、僕の中では、女といえば「奉仕」でしょ、みたいな感覚である。奉仕してこない女は、もはや女ではない。ただの「産む機械」であると、断言してもいい。そんな女には、もちろん暴力をふるう。冷蔵庫の扉を「バーン」と勢いよく閉めて、震える肩をすくみあがらせることも朝飯前である。家の中の物はあっという間に壊すし、レンジの中で何かが爆発した日には、「てめえ何やってんだ」と、そのレンジの角で女の頭をガツン、である。


 どうだ。

 どうだ、って、もう限界だ。僕は一体何を書いているのか。そう、これは、ひとつの実験である。いつも僕の心情をありのままに吐露していると思われがちなこのブログであるが、そんなことはない、ような気がするのである。だって、僕は上のような文章を書くこともできるし、けれども僕は非常に穏やかな人間であって、おそらく上に書いたようなことは普段思わないし、しないのである。だが、これからも絶対にそのような言動をとらないかというと、そんな保証はどこにもない。だって、書かれた内容はもともと僕の頭の中にあって、僕はそれをたまたま実行していないというだけで、いつでも、なんなら今すぐに、やろうと思えば僕はそれを実行できるのである。
 みたいなことを、昨今の「創作とポルノの問題」みたいなことを考えるときに、少し思う。創作だから、いくらでも卑猥なこと表現してもいいよね、とは簡単には言い難い。僕らの頭の中には膨大な数の「人間のモデル」があって、そのなかからTPOにふさわしい人物像を借りてきて「そのときの自分」としているような気がする。それなら、そのモデルとなるような、しばしば残忍で犯罪的なアイデアを「芸術」の名のもとに大衆に流布していいのか。そんなドキドキした気持ちが多少なりともあるのである。でもまあ、僕なりの考えの結論を言ってしまえば、めちゃくちゃ下品でも残酷でも卑猥でも、誰かによって表現された「芸術」を自分のなかに汲み取る権利を、誰しもが持っていると思うし、持つべきだと思う。芸術っていうのは、漫画とかイラスト、小説も含めて。

 あ、なにについて語っているかって、会田誠の森美「犬」シリーズの展示問題に、便乗してみたのです。

 まあ、あくまでこのブログはエンターテインメントであって、みなさまに面白がってもらえるよう、多少の誇張や作り話、大言壮語はあたりまえなのであるよと、そんなことも言ってみたかった。こんなところに脳みそを使わずに書いた文章から、ぼくの人となりを判断されたりしては、たまったものじゃないのである。


 さて、今日は楽しかった。おしゃべりがこんなに楽しかった日は、久しぶりだ。運命である。しかも、明日は渋谷で、おしゃれにグラスを傾けてくる予定だ。多分ブログも幸せな感じになるので、貴様ら、覚悟しておけよ、と思う。

 そういえば今日、もぐった授業で、なぜかあてられ、マイクで喋ったのだが、なんか、自信なさげな、きもい感じになって、教室にいた何百人かに笑われたので、もっとちゃんと喋ろうと思いました。アディオス。