屈辱的な死、屈辱的な生

 授業でちらっと読んだM・フーコーの『監獄の誕生』に、死刑囚ダミアンの話が出てきた。ちょっとグロテスクなので吐き気を催しつつこちらウィキペディアなので安心して!)を読んでもらえばいいと思う。めんどくさがりなあなた、およびガラケーのあなたに簡単に説明すると、焼かれたり引きちぎられたり、挙げ句には引き裂かれて死んだ死刑囚である。ああ、これからの説明のために、やっぱり下に詳細に書きます。面倒くさいし気持ち悪いので、見たくない人は見ないでください。

一七五七年三月二日、ダミヤンにたいして次の有罪判決が下された。「手に重さ二斤の熱した蝋製松明をもり、下着一枚の姿で、パリのノートルダム大寺院の正面大扉のまえに死刑囚護送車によって連れてこられ、公衆に謝罪すべし」、つぎに「上記の護送車にてグレーヴ広場へはこびこまれたのち、そこへ設置される処刑台の上うえで、胸、腕、腿、脹らはぎを灼熱したやっとこで懲らしめ、その右手は、国王殺害を犯したさいの短剣を握らせたまま、硫黄の火で焼かれるべし、ついで、やっとこで懲らしめた箇所へ、溶かした鉛、煮えたぎる油、焼けつく松脂、蝋と硫黄との溶解物を浴びせかけ、さらに、体は四頭の馬に四裂きにさせたうえ、手足と体は焼きつくして、その灰はまき散らすべし」。

(引用元はたぶん「監獄の誕生—監視と処罰」(翻訳・田村俶)なんだけど、孫引きっぽくて原典が分からない。ごめんなさい。)

 どうよ。

 まあ、相当な悪人じゃないかぎり「むごたらしいなあ」という感想が出てくると思うし、授業のとき学生からも「残酷だ」「かわいそう」などという声が上がったけれども、これ、僕が思うに、なにがすごいって、その準備に要した時間とスタッフの数なのですね。

 まず、これを執行する人、このレベルの刑を執行するのはおよそ150年ぶりだったということで、東奔西走して「どうやって刑を執行しよう」と文献を探して準備しまくったそうなのですね。で、執行にもスタッフが数十人集まって、当日の昼から準備をしてたみたい。馬の手配とか道具のことを考えたら、もっと前からかな。本番の死刑執行が始まったのは午後四時なんだけど、その最中も主任司祭のド・サン=ポールっていうトイレ用洗剤みたいな名前の宗教関係の偉いひとが、死刑囚の額に接吻したりして、何度も「何か言いたいことはないですか?」と尋ねたりしたらしい。
 さらに、死刑囚が最後までなかなか死なず、死んだ後もバラバラにして燃やしていたら夜の十時半を過ぎたと書かれている。で、結局夜の十一時すぎまで、役人たちはその場にいたらしい。末端のスタッフの後片付けを含めると、日付をまたいだ者も多かっただろう。


 不謹慎なのを覚悟で、もう一度言おう。なにがすごいって、このイベントに際してスタッフの気合いが半端ではない、ということだ。まるで、大学の学園祭の運営スタッフみたいなのである。「お昼集合で、バラシは日付変わって明日になりま〜す」。そんなテンションなのである。

 実際の刑が残酷なのは知っている。調べれば調べるほど、本当に残虐的だなと感じるし、生で見た様子なんて想像するのも恐ろしい。ただ、僕が思うのは、大々的に、時間をかけてじっくり拷問されながら殺されるのも、ここまで入念な準備と、大規模な人員が導入されると、むしろ逆転して、死刑としては「至れり尽くせり」なフルコースなのではないか、と思うのだ。ああ、こういうことを言うとものすごく非難を浴びそうではある。


 人間、誰しも「むごたらしく死ぬ」ことを望んでいるものはいないと思う。「殺す」ことと「痛めつけて殺す」ことが大きく異なるのは、現代の「屠殺」なんかにも関わる重要な倫理であり、僕もこの点について異論はない。ただ、人間には「死ぬ」ことを望んでいる者はいる。年間の自殺者が三万人いる国である。そのなかには、誰にも気にされず、一人で黙々と死んだ者もいるだろう。あるいは、自殺したいにもかかわらず死にきれない者、たとえば囚人で、さらに無期懲役であったりする者は、自傷・自殺することがないように常に看守に見張られていながら、牢屋の中で何十年も生き続けなければならない。たとえ、今すぐに死にたくても、だ。


 そこで僕が考えるのは、「生きたいのに、一方的に痛めつけられて屈辱的に死ぬ」ことと、「死にたいのに、一方的に保護されて屈辱的に生きる」こととの差異は、どこにあるのか、ということである。


 「屈辱的な死」は、死の場面一点に濃密に描写されうるので、とても分かりやすいし、共感を呼びやすい。ダミアンの例のように。ただ、「屈辱的な生」は、ときには何十年に及ぶ、連続的な屈辱である。それは言葉で語りづらいものでもあり、非常に込み入った物語的な屈辱となる。

 ダミアンの罪は国王殺しの罪であったが、現代であれば「死刑」あるいは「死ぬまで刑事施設(ろうや)のなか」が相当しただろう。死刑に関しては、今ではボタンひとつでピッと執行が完了するみたいだし、これについてはまあ、ダミアンのように滅茶苦茶にいたぶって殺すよりも圧倒的に優れているし、正しいと思う。
 ただ、「死ぬまで刑事施設のなか」に関しては、ダミアンが受けた「八つ裂きの刑」と「どちらがより残酷か」ということは、正直よく分からないのだ。勘違いしてほしくないが、「どちらが倫理的に正しいか」ということは、分かる。「死ぬまで刑事施設のなか」のほうが正しいに決まってる。決まってるが、どちらが「より残酷か」ということに関しては、思いのほか両者は拮抗しているような、あるいはそもそも比較ができないような、そんな気がしてならないのである。ダミアンの刑の残虐さ、「屈辱的な死」を「ひどい」「かわいそう」と同情するのであれば、同じように今われわれと同時代を生きる者たちの「屈辱的な生」にも同じだけの同情を向けるべきではないか、あるいは、手を差し伸べるべきではないか、なんて思ったりもする。年間三万人の自殺者の最期が、例えあっけなく、一瞬の苦しみで済むような「闘わざる者の死」に見えても、僕たちが見なければならないのはそれに至るまでの「屈辱的な生」の部分ではないか、と思うのでした。

 ちょっと別の視点で言い換えてみると、いまだに「物理的に苦しみながら死んでいくと立派」みたいな風潮あるじゃないですか。拷問に耐えたり、病気と闘ったり、老いと闘ったり、戦死したりさ。そういうのがやたらと美化されてる気がして、だから難病ものの映画とか嫌いなんだけど。まあ、それはいいとして、でも、それなら「精神的に苦しみながら死んでいくのも立派」なんじゃね? みたいな、むしろ俺ならそっちの方が尊敬するけどね、なんて、そんなことを思いますよ。「自殺」って、その結果だと思うし。「屈辱的な死」ばかりに優しくしないで、「屈辱的な生」およびそれによる「自殺」にも優しくしてあげてよ! ってことでした。