人の文章から学ぼう!
昨夜、ツイッターに、以下のようなことを書いた。
友達がFacebookにあげていた文章が信じられないくらいの悪文で、これはもう悪意を持って後日僕のブログに転載し、こてんぱんに悪く言ってやろうと思っている。
しかし、僕のいう「悪文」というのは、読む価値のない、ダメな文章ではなく、むしろ読み応えのある文章だと言っておきたい。突っ込みどころが満載の文章でも、それぞれに味があって、むしろ小奇麗にまとまったものより面白かったりする。という前置きのもと、さっそく引用してみよう。あ、この文章は、公開範囲が地球儀のマークだったので、誰でも読めるものでした。誰が書いたかは言わないでおこう。都内の大学に通う、友達です。原文ママです。
【ちょっといいことがありました】
今日、友達と高田馬場駅で待ち合わせていた。
あることを不安に思いながら。
すると、目の不自由な方が駅に来た。彼は駅の中を往復して歩いていたので、何か見つからないのかな?と思って声をかけてみたのだ。
「なにかお探しですか?」と。しかし、僕の声かけもむなしく、特に何かを探していたわけではなくて、友達を待っているだった。
結局声をかけたあと、しばらくしてその友人が来て、男性は去っていった。
ただ、僕が近くにまだいたと分かっていたのか、
「ありがとうございます」
と顔を僕の方に向けて言い、去った。その一言で、僕は何も役には立たなかったものの、 ”いいことをした”という一種の「自己満足」を得ることができ、 残りの待ち時間を、少し爽快な気分で待つことができたのだ。
つまり、
「その人が僕を助けてくれたのである」
さて、どうでしょう。一行目から読んでいきましょう。
『今日、友達と高田馬場駅で待ち合わせていた。』
これはどうでしょう。十分に意味が通っていると思います。
『あることを不安に思いながら。』
さあ、出ました。読者はまずここで「おや?」と思いますね。どんなことを不安に思っているんだろう。
『すると、目の不自由な方が駅に来た。』
あれ、不安に思っていたことはどこかにいきました。続けて読んでみましょう。
『彼は駅の中を往復して歩いていたので、何か見つからないのかな?と思って声をかけてみたのだ。/「なにかお探しですか?」と。』
彼の不安事項は、一度本格的にどこかへ行ってしまったようです。一文目、末尾の「のだ」は、僕だったら書かないな。
『しかし、僕の声かけもむなしく、特に何かを探していたわけではなくて、友達を待っているだった。』
これは単純な脱字ですね。正しくは『待っている「よう」だった』、でしょう。
『結局声をかけたあと、しばらくしてその友人が来て、男性は去っていった。』
『その友人』っていうのは、「目の不自由な人の友人」ですね。この話者の友人ではありません。混乱を招きますね。
『ただ、僕が近くにまだいたと分かっていたのか、/「ありがとうございます」/と顔を僕の方に向けて言い、去った。』
『近くにまだいた』ではなく「まだ近くにいる」としたほうが、読みやすい気がします。
『その一言で、僕は何も役には立たなかったものの、 ”いいことをした”という一種の「自己満足」を得ることができ、 残りの待ち時間を、少し爽快な気分で待つことができたのだ。』
この文章では、彼の『自己満足』によって、待ち時間が少し『爽快』になった、と言われています。二行目に出てきた『不安』はもう出てこないようですから、このとき、まで不安だった気持ちが『爽快』に変わったのでしょう。言葉のチョイスの問題は、あまりとやかく言いません。
『つまり、//「その人が僕を助けてくれたのである」』
うん、いいと思います。
さて、最後まで読みましたけど、細かく見るとそれほど問題があるようには思えませんでしたね。どうも僕の思い違いだったようです。
このパターンの文章解体は、楽しいのでまたやりたいですね。
何を書くか、ということは、何を書かないか、ということに繋がっていると思います。上の文章であれば、最後まで明らかにならない「不安」は、そもそも書かなくていいのかな、とも思います。ま、自分も毎日めちゃくちゃな文章書いてるので、人のこと言えないですけどね。