生きたまま、君に届け!

 生牡蠣を食べてきた。三重県産の、的矢カキ。美味しかった。今回は食べ物について書いてみようと思う。 

 食品の表示については、以前もバナジウムってなんやねんみたいなことを書いたが、スーパーに行くたびに、「どうなのこれは」と思うことがよくある。例えばヤクルトは、乳酸菌が生きたまま腸に届くらしい。

 なにも、生きたまま届かなくてもいいのに、と思う。

 例えば、牛や豚は、生きたまま腸には届かない。今日食べた生牡蠣だって、死んでから僕の口に入って、それから腸に届いたはずだ。普通、「何者かに食われる」というのは、生命として「アウト」になった後のことであり、われわれが「いただきます」と言うのは、その亡くなった命にたいして感謝の意を示すものではなかったのか。
 それなのに、あのヤクルトを一本飲むとき、150億もの乳酸菌は、しれっと生きたままわれわれに食われるのである。「食われる」という圧倒的に弱い立場でありながら、「生きたまま」腸まで届いちゃう、その「小さいからセーフ」みたいな感じが、ずるいと同時に、情けなくもある。しかも、150億もの膨大な数で。右も左も乳酸菌、わけもわからず「わーーーーい」ってなってるあいだに、彼らは食われ、死ぬことも許されず、腸まで届き、「わーーーーい」って言いながら馬鹿みたいに腸内をゴシゴシ磨くのである(最後のは想像)。気付いてるんだろうか、その、奴隷のような立場に。僕が乳酸菌だったら、食われる段階で、ひと思いに死んでしまいたい。それこそが、自分より強い者に食われた者の最後のプライドであり、食物連鎖におけるあるべき姿なのではなかろうか。「もういっそ、栄養にしてくださいっす!」。心からそう願い出たい。「じゃあ、僕はこれで」。腸へと向かうみんなを尻目に、胃あたりで溶けてなくなりたい。生きたまま腸に届きたくない。

 ビスコ! お前もだよ。何「俺は関係ない」みたいな顔してんだ!


 ここまで書いてきて思ったのは、なんでしょう、僕は乳酸菌になんの恨みがあるのだろう、ということですね。とにかく、あの「生きたまま腸に届く」という宣伝文を見るたびに、ああ、豚や牛は死んでから腸に届くんだなあという思いと、腸で死にゆく150億の乳酸菌への追悼の意で、胸がいっぱいになるのであった。よく、「成人男性が一度に射精する精液には数億匹の精子が含まれている」と言われるので、その精子たちの「野垂れ死に」を悼む人はたくさんいるじゃないですか。でも、よく考えれば150億の乳酸菌も一口で食い殺しちゃうわけでしょ、われわれは。やっぱり、「食べる」ってことはすごいんだなあと、思う。なんのこっちゃ。

 で、いま、あのヤクルトの容器、65ccのなかに、精液をなみなみ注いだら、おおよそ何匹の精子がいるのか、それでヤクルトの乳酸菌の数と比較をしようと思ったんですけど、さすがにヤクルトに対して失礼な気がするし、ていうか、そういうを書くのはこのブログの指向に合わないので、やめますね! それジョア(それじゃあ)、また!