少年よ、親切を捨てよ!

愛は負けても、親切は勝つ。
そう書いたのは、そう、アメリカの偉大な作家、カート・ヴォネガットでした。いつからでしょうか、僕は「親切」について考えています。「前の席の人が消しゴムを落としたら、拾ってあげるくらいの親切は持ち合わせていたい」。そう書いたのは、松尾スズキでした。
人の言葉の引用は、ほどほどにして。先ほど、親切についてツイートしました。まずはこちらをお読みいただきたい。

今日もスタバのイケメン店員が、カップに雑なメッセージを書き散らして、お客様を幸せにしてる。やっぱり親切は供給過多なんですよ。親切は、他になんの取り柄も手立てもない、僕みたいな人間の最後の武器なので、みなさん軽々しく使わないでくださいね。(たごもりそ著『斜に構える男』より) (https://twitter.com/TGMRSCHR/status/320162498907095040)

これを読んでもらったらわかると思いますが、僕は親切について、あまりいいようには思っていません。これだけ言うと、ちょっと頭のおかしい人のように思われてしまうので、説明を加えさせてください。
親切は、最後の武器です。親切心さえもっていれば、人生はなかなか悪いようにはならないのです。そして、親切におぼれると、親切だけで生きてしまう。これがなかなか、恐ろしいことだと思うのです。
僕なんか、イケメンや美女が人に親切にしているところを見ると、イラっとします。親切というのは、やるのは簡単なのです。ほんのちょっとのエネルギーでできてしまう。言うなれば、最短の方法で人を幸せにする行為です。幸せへのショートカットですね、やる側も、やられる側も。イケメンや美女は、他の方法で人を幸せにすることを知っている。軽く笑顔を向ければ、それだけで人を幸せにできるのです。それなのに、なお行為でもって人を幸せにしようなんて、おこがましいのです。ほんの小さな親切でしか、人を幸せにできない、そんなぼくたちに、親切はとっておいてほしい。今の時代は親切が供給過多である、そう叫びたいのです。

僕がこういうことを言うと、必ず反論がくると思います。うん、当たり前。だから、こう考えて欲しい。「親切」という言葉の定義が、多分違うのですね、あなたと私では。ずるいですけど。
じゃあ、この「親切」という言葉を、「余計なお世話」「ありがた迷惑」という言葉に置き換えてもいいでしょう。親切心なんて、ちょっとした油断で良くも悪くもなってしまう。
これはどうでしょう、「いい人」。今の時代は、「いい人」に溢れている。そう言うことも可能ではないでしょうか。人が落とした鉛筆を拾ったり、バイトの接客を笑顔でこなしたり、コーヒーショップのバイト中にカップに「いつもありがとうございます」って書くだけで、「いい人」っていうステータスを手に入れて、安心して生活ができる。そんな日本に、喝を入れたいのです。いや、そんな「いい人」に甘んじている、すべての日本人に、喝を!

いいですか。親切は、小出しにするのです。親切と正義は、振り回すものではありません。軽い気持ちで、ほんの回り道で、親切は実行できます。そんな誰にでもできることで、あなたの人柄を「いい人」と定義されて、最低限かつ安心な人間関係を保証されてしまっては、いけませんのです。あなたの魅力は、そんなものではない。そんな評価に甘んじてはいけないのです。親切は麻薬のようなものです。やめてしまいなさい。親切は、ほんとうにどうしようもない、親切以外に生きる術を持たない、僕みたいな人間に、任せていればよいのです。人には役割がある。この国は今、親切を過剰に評価しすぎているのです。


さて。ひさびさの更新でしたので、荒ぶってみました。
今しばらく、京都におりますので、落ち着いたらゆっくりと自宅から更新します。それでは、おやすみなさいませ!