ソーイングセット

 お気に入りのリュックサックの、肩の部分がちぎれたので、ソーイングセットを買った。というか、この肩の部分、愚かな友人が僕のリュックをふざけてぎゅっと掴んだせいで、ビリっと音がして大きく裂けたのであるが、後日その友人に「肩の部分破れてない?(笑)」みたいなことを言われて、「お前のせいだろうがあ!」って憤った覚えがある。いや、ふざけて掴んできたのはその人ではなかったかもしれない。まあいいや。それからしばらくの間、気にせず使っていたが、ついに無印良品をぶらつき歩いている時にちぎれて、それなら、ということで、無印良品ソーイングセットを買ったのだ。いや、ちぎれたのは無印良品でのことではなかったかもしれない。それより前に、たしかお昼御飯にスープを食べていたときに、すでにちぎれていたかもしれない。まあよい。とにかく、針と糸は手元にあるのだが、縫い物をするような気分になることがないので、今まで放っておいて、そのままになっている。気分になることがない、などと言うと、これまで二十年間生きてきて、それこそ一秒たりとも何か物を縫いたいと思ったことはないので、無理やりにでもその気分にならないと僕のリュックサックは破れたままになっているだろう。世の中には、裁縫が好きで、恋人の破れた靴下を縫ってあげているときに幸せを感じるというような人がいるらしいが、この手の幸せは正直信用がならない。縫い物に限らず、人に何かしてあげているときに幸せを感じるというのは、その人がいなければ自分が幸せになれないということとイコールである。そして、誰かが自分の存在によって幸せを感じているというのは、初めは嬉しいものだとしても、そのうちつまらないもののように思えてくる。自分ですら、自分の存在によって苦しめられているような気分になることが、人にはある。自死念慮と言ってもいいかもしれない。自分は、自分という存在によって、苦しめられることもあるし、喜ばしい気分になることもある。それなのに、恋人というものは、時に自分の都合のよい部分のみを享受し、自分が自分であることの苦しみの部分は担ってくれないことがある。そういう都合のよい人に限って、こちら側の喜ばしさのみは平等に分かち合おうとしてくる。そのような鬱陶しさをもっているのであろう人物が、過去にも僕の目の前を数多く通り過ぎていった。このようなことを語っていると、僕個人の恋愛関係において、そのようなことを思わせる出来事があったのかと心配される気配もあるが、そのてんは無用だと念を押したい。僕は普段から、自分とは遠い立場にある人から話を聞くことが好きで、その立場に自分を置いてみることも好きなのである。

 男に依存する女の恰好悪さは、世の女からさんざん糾弾されているが、それでもなお男に尽くして止まない女が数多くいるのはなぜだろうか。もちろん、そうではない女も数多く知っている。しかし、僕の周りで、彼氏のことが好きすぎて上手くいかない、鬱陶しい性格の女が数多くいすぎていて、そのような人たちのだらしのない愚痴を聞く羽目になることが結構あり、しんどいので、僕もまたここで愚痴を吐露させてもらおう、と思った次第である。なお、ここに書くことも、僕の偏見に満ち溢れたものであり、普段からこのようなことを思って生活しているわけではないが、混沌とした脳みその中にあるものを文章にして書こうなどというおこがましいことをする以上、言葉と言うものに決めつけて書かなければならないので、多少の傲慢ぷりは大目にみてもらえればありがたい。

 まず、そのような「尽くす性格」の女たちに共通して言えるのは、「ギャルに対する一方的な敵視」である。男に依存する女の特徴は、まず第一に、見た目が地味な場合が多い。黒髪で、化粧はナチュラルメイクが似合うねと言われるような、美形が多いとも言えるだろう。しかしその一方で、腹の底は意地が悪い。彼女らは、たくさんの男と出会い別れを繰り返す女に、明らかな嫌悪感を表明し、女の敵であるかのように論ずる。髪の毛の色が明るかったり、ピアス穴を開けていたり、カラーコンタクトやつけまつげを発見するだけで、「男に迎合している」と決めつけて引かない。ここに大きな勘違いがあるのだが、男に迎合しているのは派手さのないナチュラルなメイクであり、盛れば盛るほど魅力が増すというのは未熟な女の勘違いである。男のおしゃれと女のおしゃれの違いは、その方向性にある。男のおしゃれは、女の目を引き、いかにモテるかというところに照準がある。対して女のおしゃれは、自分たちが何を着たいか、身につけたいか、というところから始まっている。自分が自分にとってかわいくなることがほとんど唯一の目標であり、男に色目を使いたいという思いはほとんどない。
 見た目が地味な女性は、ただ自分に対する向上意欲が少ないだけで、それだけなら単に個人の趣向の問題であるが、だからといって派手な見た目の、向上意欲のある女を「色目づかい」「男に媚を売る」などとこきおろすのは言語道断である。そもそも、普段からあまり化粧をしないような女は、化粧をしなくても人前に立てるという自信のもとで化粧をしないのであって、それ自体は責められることではないが、そのような生まれ持った美しさの上にあぐらをかき、化粧の濃い女を目の敵にするのは失礼千万である。そして、そのようにして化粧の薄い、地味で、黒髪の女を愛でたいという男性読者諸君の嗜好もまた、問題なのである。どうも僕には、男性諸君の欲求にねじれがあるように思われてならない。例を挙げると、缶ビールの『金麦』に出てくる壇れいのような女が、とにかく男の心を捉えて離さないのであろう。化粧も地味で、着ている服もダサく、男に尽くすことだけが取り柄であるような、そんな男にとって理想的な女性像が見てとれる。これまで書いてきた、ギャルを「女の敵」と見做すような地味で芋っぽい女ほど、じつは男がよだれを垂らすほどに大好きな「理想的な女」なのであり、そういった意味で男からの恩恵を受けているのはそういう見た目の女だし、彼女らは女という存在を昭和の時代にいまだ縛り続けている張本人ではないかと、僕は言いたい。
 僕はよく、そのような女に対して「気持ち悪いおじさんにモテそうだね」と言う。そうすると、たいてい「なんで分かったの」という反応が返ってくる。しかも、やや嬉しそうに。それは、その人が男の好みに迎合的な、つまり金麦の壇れいのような前時代的なダサさを背負った容姿をしていると指摘しているのであるが、まさか僕が言ったことが悪口であるとは思わないらしく、まんざらでもない様子で「過去に気持ち悪い男に言い寄られた自慢」が始まる。自分が気持ち悪い男とタッグを組むべき保守的な性質であるにも関わらず、である。