読みかえすことについて

 先日友人にもらったビスケットが、とても美味しい。フランスのお土産で、小ぶりな缶に36枚のビスケットがぎっしりと入っている。包装やデザインに掛ける費用をおさえて、その分とにかくぎっちりビスケット入れました、みたいな感じが、外国だなあという感じがします。乾燥材とかも入ってないし。

 そういえば、以前に文学賞に出していた小説の結果が出ていて、もちろん落選してたんですけど、僕はもう賞に出して落ちるのは5回目か6回目くらいで、出した瞬間から落ちることは分かってたというか、まあ、それでも一縷の望みがあったことは否定しませんが、とにかく今回もだめだったというわけです。卒業論文とかもそうなのかもしれないけど、自分が書き上げたものって、完成した直後は「良いものが書けた」と思っていても、一週間経つと読み返すのが怖くなり、一ヶ月も経つと「なんて愚かなものを書いたんだ!」と頭を抱える羽目になりますよね。で、僕もそういう経験を何度も何度も積んでいるので、書き上げた瞬間からとにかく自分が書いたものの「面白くなさ」を疑ってかかるようにしているのですが、やっぱり何度か推敲を重ねていくうちにまた冷静な視点が持てなくなり、封筒に入れて出版社に出した段階では「もしかすると」と思ってしまうのであった。今回もそんな作品が落ちたわけであるが、やはり今読み返してみると「こんなものが人に読ませられる作品であるか!」と自分で突っ込みを入れたくなりますね。
 で、去年の年末に原稿用紙100枚程度で書き上げたのがその応募作で、それから一作も完成させていないのですが、こうやって落選するとやっぱり「また何か書きたい」という意欲が燃え上がってくるのでありまして、ブツ切れのブログなぞを毎日更新していても完全な不完全燃焼なのであります。
 プロのブロガーになりたくてブログを書いているわけではないように、小説家になりたくて小説を書いているわけではないけれど、短歌や俳句と同様、老後の楽しみに小説が書けるような人生を想像していて、それはきっと愉快だろうなあと思う。で、願わくば、例えば今現在もプロのランナーではない市民ランナーがたくさんいるように、プロの小説家ではない市民小説家がたくさんいるような国になったら、すてきではないか。西洋の靴が輸入されて、ウェアや水分補給、あるいは専門的なトレーニングが一般化して、ちゃんと訓練を積めば42.195kmを誰でも走れるようになったように、これからの時代、小説だって、誰にでも書けると僕は思う。それが面白いか、面白くないかは別の問題であるが。しかし、従来の文芸とは一線を画し、自分の人生の経験や、信条、あるいは思い込みを、自分とはまったく別の人生を生きる登場人物に託して綴る試みは、自分の脳みその中身を客観的に見る材料として有意義であると思うし、何より小説を書くというのは日頃使わない頭を使うので面白い。書いている側が面白いのだから、誰が太鼓判を押さなくても書き手の勝手なのであって、この喜びを享受しないのはもったいないなあと切に思う。僕は「この人の考えていることは面白そう」と思ったら、「是非小説を書いてほしい」と伝えることがある。そうすると大抵謙遜して「自分には無理だ」と言うけれど、枚数が書けるか書けないかはただ単に経験の問題だと思うし、だいいち小説を書くのはお金がかからないうえに休日がいくらでも潰せる。今の日本は集団で何かやらないと不安だから、ひとりで黙々とパソコンに向かうよりも、たとえ非効率的でもみんなで集まってダラダラとなにかやる方が「やってる感」が出るのであって、意味のわからない踊りや、素人の演奏会で達成感を得られるようであるが、ひとりで耽々と何かを成し遂げるという道もあるのではないか、と、そんなことも思って今回のブログを書いた。ちょっと前にも書いた気がする