矛盾

 人は、同時にどのくらいの矛盾をはらみながら存在し続けることができるのだろう、と考える。去年言っていたことと、今年言っていたことが違う。これはさすがに、矛盾ではないかもしれない。人は変わりゆく生き物だ。去年発言していた私と、今年発言している私、その二人はもはや同一の「私」ではないのだから。では、先週言っていたことと、今週言っていることが違う、これはどうだろうか。あれれ。これは矛盾、かもしれない。もっと話を分かりやすくしよう、これならどうだ。昨日言っていたことと、今日言っていることが違う。これこそ、「お前、矛盾しているよ!」と糾弾されてしかるべきであろう。たとえば、昨日「食後はやっぱりコーヒーだよな」と言っていた友人が、今日は紅茶を飲んでいる。おかしいなと思って「あれ、紅茶よりコーヒー派じゃなかったっけ?」と聞いてみる。すると友人は、こう答える。「え? 食後に飲むのは、やっぱり紅茶じゃない?」と。
 このような返答をされて、あなたはこの友人について「不思議な人だなあ」あるいは「頭がおかしいんだなあ」と思うだろう。しかし、もしこのランチが連続した二日間に起きたものではなく、久しぶりに再会した友人同士で交わされたものだとしたら、どうだろうか。ちょうど一年間、友人は海外に留学していて、先日帰国したばかり。かつては無類のコーヒー党だった友人が、なんのためらいもなく紅茶を注文するのを見て、あなたはこう思うだろう。「あら、この人、『コーヒーより紅茶』派になったんだ」。一年あれば、人は様々な経験をして、それまでの習慣だって変わることがある。あなたはそのことを理解しているから、いちいち友人に「なんでコーヒーを頼まないの!」と食ってかかったりはしない。

 一年と、一日。この差について、考えてみると、ある人は、ひとつの考え方を変えるのに、一年という期間を要するかもしれない。しかし、またある人は、一夜にして自分が持っていた考え方の定石を捨て去って、新しい考え方にチャレンジできるかもしれない(それが無謀なチャレンジという場合もある)。
 つまり、一日前の自分は現在の自分であり、一年前の自分は過去の自分である、というような明確な線引きなんて、出来やしないのである。なぜなら、その間にも金太郎あめのように、どこを割っても無限に「私」が出てくる他、ないからである。存在するのは、ただ、生まれてから死ぬまでに膨大な矛盾を抱えた私、ただ一人なのだ。無限にわけることができる私は、つまるところひとりの「私」でしかないのである。

 明日の朝、たまたま僕はシャワーを浴びる習慣をもち、シャワーを浴びるだろう。そして、たまたま大学に出向く意思をもち、大学に行く。たまたま大切な人を大切に思い続け、メールを送るかもしれない。たまたま『蕎麦よりうどん』派で、たまたま人の話を聴くのが好きで、たまたま人を殺したりしない善良な市民であるだろう。

 しかし。汝、矛盾を恐れるなかれ! 

 矛盾とは、すなわち変化のことである。なぜなら、時間は常に進んでいるから、時の流れを完全に止めない限り、矛盾なんて存在し得ないのである。「時が、君を変えた」。それだけのことだ。それが一秒だろうと、一年だろうと、同じことだ。


 なにが言いたいかというと、言ってることが昨日と今日で違っても、許してほしい、ということっす。っていうか、寝ながら適当に書いたので、勘弁してほしいっす。寝る。そろそろこのブログも、わけわかんなくなってきたな。