おっさんどもに、ものもうす
ひさびさに更新してみようと思う。
この二週間ほどのあいだに、なにか目新しいことがあったかなあ、と考えてみる。
考えてみたが、思い出せないので、自分のツイートを引用して、解説してみようと思う。自分のツイートを自分で解説する、こんなに切ないこともないが、まあ、どうせ生まれながらにして黙っていられない性分だし、これは自分のブログなので、誰に文句を言われることもなかろう。
「若くあり続ける」ということは、「下の世代の文化に侵入する」ということか、それとも「自分の世代の『若さ』を貫く」ということか。前者は女子大生のフェイスブックにいいね!して、後者はおやじバンドでギター鳴らしてるイメージ。いずれにせよおじさんは、ちょっぴり切なく、ちょっぴりきもい。
— たごもりそさん (@TGMRSCHR) 2013年6月8日
僕は、この問題提起が、「おじさん論」を語る上で実に重要な点を突いていると思うのだが、案の定ツイッターをやっているような馬鹿たちにこんなことを語っても意味がないようで、みんなに無視されたので、ここでふたたび語ってみる次第である。 なぜこんなつぶやきをしたかというと、近頃どうも、こちらの若者文化に侵入してくるおっさんが多くて、気持ち悪いのである。つまり、「若くあり続ける」ということを、「自分の世代の『若さ』を貫く」ことではなく、「下の世代の文化に侵入する」ことだと勘違いしたおっさんたちが、こちらの若さにすり寄ってきているのである。
とくに、ツイッターやフェイスブックなど、インターネットのなかでその傾向はいちじるしい。年長者というのは、こちらから頼るときには頼もしい存在であるが、あちらから近寄ってこられれば鬱陶しいだけなのである。インターネットでは、自分の白髪や加齢臭、はたまた地位や孤独な状況に関係なく、若い人たちが「年長者」というだけで気を使って反応してくれる。そこに甘んじて、若者に交じって同じ空気感を楽しんでいるおっさんが、たくさんいるのである。それは、部活動のOBやOGに似ている。つまり、同世代と同時に順調に歳を重ねることができず、「一般的な」同世代の楽しみ(結婚し、家庭をもち、知性と情緒を重んじる豊かな趣味を味わい……)から振り落とされたおっさんたち、世代からはぐれたおっさんたちが、若者のなかに迷い込んできている、そんな印象を受ける。
僕が言いたいのは、年下と戯れたいおっさんというのは、たいてい、その年代のまっとうなおっさんたちからはぐれた、「かわいそうなおっさん」である、ということである。なぜなら、まっとうなおっさんならば、おっさんたちのなかで色々と役割をもっていて、忙しいはずだからである。若者にかまっているひまなどないのだ。
そして、そのような「はぐれおっさん」の相手をしてあげるのもほどほどにしないと、そのおっさんのためにならない。なぜなら、若者の中にまじって気持ちがいい時間というのは、そのおっさんにとって、単なる気休めにしかならないからである。おっさんを、甘やかせてはならない。若い人間が、おっさんの貴重な余生を、もてあそんではならないのである。おっさんには、まだまだ同世代や上の世代に目を向けてもらって、成長していってもらわなければならない。
そして、若い人たちにとって、そのようなおっさんを容認するということは、自分もいつかそのようなおっさんになるということを、心のどこかで許容することに他ならない。これが、実は相当な甘い蜜なのである。
おっさんたちに忠告しておくが、若者たちは、あなたがたと接するとき、必ず無理をしている。いくらおっさん側が打ち解けたと思っても、若者はあなたと流行の話をできないし、時代を背負った悩みや思いを共有できない。所詮そんなものなのである。
そのようなことを分かった上で、こちらと接してくれるおっさんは、とても頼もしく、とても愉快だ。僕はそのようなおっさんを何人も知っているし、敬愛している。ただ、たまにやって来る「勘違いおっさん」「はぐれおっさん」が気持ち悪いので、このような記事を書いた次第である。このようなことをはっきり書かない、われわれ世代の「優しさ」に、辟易している、というのもある。
いずれにせよ、僕のような尻の青い若者の、こんなひっちゃかめっちゃかな「おっさん論」を笑い飛ばしてくれるようなおっさんこそが、本物のおっさんであり、ドンと構えた「The おっさん」である。おっさんがたのユーモアあふれる反論を、楽しみにしている。