癒されることについて

 うちの近所に精神科病院があって、そこで日常的にデイケアが行われていることは、話したことがあっただろうか。なかった気がするので今回はそのことについて書こうと思う。
 デイケアとは、精神科の患者が社会参加を目的として、同じように病院に通う者同士で交流をする場である。そこでは音楽や手芸、レクリエーション、スポーツなどを通じて、仲間との協調性、あるいは自主性を習得するらしい。らしい、というのも、僕は行ったことがないので、読んだり聞いたりしたことしかない。
 で、近所の精神科病院というのは、実はうちのすぐ裏にあって、毎日毎日、非常にやかましい。卓球をやれば大声で盛り上がり、元気な音楽を大音量でかける。なんてことのない話し声もほとんど筒抜けで聞こえる。足しげく通っている人物については、声を聞けば一発で分かる。なかには通院四年目の女性もいる。僕が一年生のころから知っている。おそらく五十歳くらいで、恰幅の良いおばさんだと想像する。この人はとにかく声が大きい。僕はこの女性の家族構成まで知っている。悩み事もたくさん知っている。言っておくが、盗み聞きしたわけではない。うちの窓を半分ほど開けていると、五メートルほど先のあちらの窓から、大きな声が響いてくるのだ。最初はうるさかったけれど、慣れた。わけもわからずその女性の身の上話を聞かされているうちに、文句を言いに行くのも可哀想になった。そんなこんなで四年目になったというわけだ。
 その女性がデイケアに通っているかどうかは、よくわからない。彼女の声が聞こえてくるのは、いつも二階のほうからなのだ。あの病院は、普段の様子からすると、おそらくデイケアが行われているのは一階で、診療が行われているのは二階なのである。ちなみに言うと、外から階段で二階に上がったところが診療室の入り口なのだが、その入り口の前には灰皿が置いてあって、喫煙スペースになっている。わが家の窓はその空間のすぐ斜め下にあるので、たまにタバコの煙が流れてきて、けむたい。こちらと目が合わないように、あちら側の手すりにはぐるりと緑色のビニールが囲っている。

 今日のお昼、デイケアでは合唱をやっていた。合唱と卓球は、音が大きいのですぐに分かる。逆に言うと、合唱と卓球以外は何をしているのかよく知らない。たまに音楽鑑賞をやっている、ような気もする。つまり、漏れ聞こえてくる音以外はなにも情報がない。
 デイケアで歌われているのは、ほとんどが「夢」とか「希望」とか、そういう単語が入ったたぐいのものだ。今日はスピッツの『空も飛べるはず』と、坂本九の『上を向いて歩こう』だった。なかなか上手だし、いい曲だから、無理やり聞かされても嫌な気分にはならない。お昼寝どきに、むしろ良いBGMになった。
 ところで、僕は学校の合唱というものが嫌いだった。嫌いというか、歌を歌うことは昔から好きだったけれど、みんなと一緒に、それこそ夢や希望を称賛するような歌を歌うことが、とにかく嫌だった記憶がある。なにより、どんなに一生懸命歌っても、合唱は完全に「みんなの一部」になってしまう。いや、「みんなの一部」になることこそが、正しい合唱の歌い方なのだろう。合唱というものはいろんな人の個性的な声が均一化されて、特徴のない音の響きにまとまっていく。それがなんとも味気なく、さみしい気がするのだ。
 だからといって、合唱における「個の埋没」の作業がデイケアで行われているというのがさみしいとか、そういうことではない。僕の場合はそれがたいへんな苦行だが、デイケアは協調性を養う場であるから仕方がない。でも、曲のチョイスはどうだろうか、と僕はそれを思う。どうもあちらの選曲に、「夢や希望を語った明るい曲を歌えば、気持ちも明るくなる」という意図が入っているように思われてしかたがない。僕なんかは逆だ。そういう安易な「癒し」には、結果的にエネルギーを吸い取られる、と考えている。
 僕はよく、メンヘラや鬱について考える。僕が高校生のとき、父親が鬱病になって、二年間働けなかった時期があるので、母親曰く「情動の発現が父に似ている」自分にもその傾向があるのかもしれないと考え、鬱病のひとたちにどのような傾向があるのか、なんとなく探りながら生きてきた。これは僕が、自分の人生をより良くするために行っている思考であるから、学術的に正しいかとか医学的に違うんじゃないかとか、そういうことは関係ない。もっと切実な、個人的な問題である。
 このように前置きをしていても、個人的な理由で鬱病に苦しむ人たちを勝手に「分析」することが正しいのかは分からない。「自分がそうなるかもしれない」というのは、「そうなった人」の立場を勝手に解き明かしあるいは代弁する免罪符にはならないと思う。しかしまあ、言論の自由が認められた国で(今後どうなるかはあやしいけれど)、各々が自分の考えを書き散らすブログという場で自分の意見を提出して、さらに様々な人が読んで感想をくれたり、みんなが自分なりにそういう病気のことを考える機会になれば、それもいいんじゃないか、などとも思う。

 そして、ここが今回僕が書きたかったことなのであるが、「夢」や「希望」といった抽象的な言葉を賛美するのが癖になっている人は、鬱病になりやすい傾向があるように、僕には思える。「綺麗ごと」に「胡散臭い」と思える感性というか、大きく言えば「批判性」とか、そういうものがないと生きていくのはキツイと思うのだ(ましてや、そのような綺麗ごとのオンパレードをみんなで一緒に歌っているという絵面にたいして)。つまり、日常の小さな「癒し」にイライラして、鬱を小出しにすることが必要なのだ、とも言える。僕なんかは、なにか耳聞こえのいい言葉が遠くに聞こえるたびにイライラして、そのそばまで行ってバシンと叩く、あるいは怒鳴り散らす、そのようなストレス発散によって日々生きている(デイケアに関してはいいけど)。西に「パワースポット」と呼ばれる場所があれば行って細部まで怪しみ、東に「愛の伝道師」が居れば行って「愛など必要ない」と言う。つまり、頭のおかしい、いじわるおじさんである。
 それが、どうも鬱になってしまう人というのは、耳聞こえのいい言葉、小さな癒しを好んで連ねて、嫌なこともなんとなくごまかして一時は忘れてしまう。「夢」とか「希望」とか「深イイ言葉」とか、パワースポット、あるいは特定の信仰心などは、一時的に精神を救ってくれても、それは決して長くは続かない。そんなものは所詮まやかしなのに、まやかしの幸福感に浸ってしまう。
 よくフェイスブックでも「人生の名言」とか「涙がちょちょぎれる話」とか、そのようなものばかり提供している人がいるが、あれらの賛同者なんて、ほとんどが心に大きな闇を抱えた「癒し」を求める現代人じゃないか。そして、綺麗ごとに癒されて、気持ちよくなって「イイネ」を押すが、そうやってさしあたりの気持ちよさで自分の気持ちをごまかしてばかりいると、不安のガスが溜まって、あるときドーンと鬱状態に落ちる。僕からすれば、そんなものは当たり前である。安易に「癒され」たツケが回ってきたようなものだ。僕がなんのために、心温まる癒し系の小話や、信じるだけで救われるありがたい宗教を毛嫌いしているか、そういう人たちは考えたことがあるのだろうか。まさか、僕は鬼の心をもっていて、血も涙もないから、そのような話に耳を傾けない、などと思われているのか。そしてまた僕はイライラするのである。

 そろそろ疲れたので、書くのをやめたいと思う。ほんとに、適当なことばっかり書いて一人で気持ち良くなっている場合ではないよ!