I was NEVER like you

ブログでも書いてみよう。書くことで埋まる余白があれば、書くことで潰れる時間もある。見やすい書類に余白はつきものだが、心地よい人生にも余白が必要だ。そしてその余白を、たまにこのような文字の落書きで埋めてみるは、学生の性分が抜けきらないからだが、実際にまだ学生だし、いけるところまでこの気持ちで生きていこうと思う。小学生がボール遊びを覚え、幼稚園児のお遊戯を笑うように、中学生が数学を学び始め、小学生の算数を馬鹿にするように、高校生がアルバイトを始め、中学生を嘲笑するように、大学生が暇をもてあまし、高校生のせわしない日々を青臭いものとして過去にしていくように、ぼくたちはまた、大学生の日々を社会人になって「わがもの顔」で振り返るのか。そんなまやかしの「成長」は、そろそろやめようじゃないか。いったいいつまで、過去を見下して振り返るだけで自分が大きくなった気でいられるような、恐ろしく呑気な生き物でいられようか。大学生にもなれば、知ったような顔で「社会」を振りかざしてくる大人にたいして、殺意を持っても構わないし、いや、持つべきであろうと思う。もう気づいただろう。われわれの先には誰もいないし、われわれの後ろにも、誰もいない。時代は絶えずうつり変わり、一方向に流れ続ける。人生の一年先輩の「メソッド」なんて、もう古いのである。社会に出る、ということは、社会というものが代々受け継いできた古い体質のなかに飛び込むということである。そのなかに変革なんてない。ただ右向け右、前倣えの世界である。

話がややこしくなったが、僕は先輩というものが嫌いである。先輩というやつは、身勝手に取得した経験則をさも一般論であるかのように語る。たいていの場合、こちらが体験したことのない状況のことだから、はあそうなんですね、大変ですね、としか言い様がない。それでいて、こちらが今の状況についてなにか言うと、どこか遠い目をして、「わたしもそうだったよ」というようなことを言う。

僕は先輩というものが嫌いだが、言い換えればこれが嫌いなのだ。「わたしもそうだったよ」、この言葉が。

リビアニュートンジョンの曲に、Have you never been mellow という曲がある。邦題がたしか、『そよ風の誘惑』。この曲、歌詞のところどころで、オリビアが悩める者にたいして“I was like you 〜”と歌う。
僕はこの曲が大嫌いだ。「わたしもそうだった」なんて言葉、よく言えたものだと思ってしまうのだ。

断言しよう。ひとの話に対して「わたしもそうだった」なんて言ってしまうやつは、聞く力が圧倒的に欠如している。ぼくはこの「わたしもそうだった」を、人とのコミュニケーションにおいて絶対に使ってはいけない言葉だと認識している。理由は、ふたつ。ひとつめ、事実「わたしもそうだった」ということなんて、まず有り得ないからだ。「わたし」の体験は決して一般化できないし、「あなた」の体験も同じだ。「わたしもそうだった」なんていうやつは、相手の話をきちんと聞いてあげる気が、初めから無い奴だ。
ふたつめ。みな、自分の体験はかけがえのない、尊いものだと思っている(し、事実そうだ)。そこに、他人が偉そうに「わたしもそうだった」という経験的優位性でもって語ってくるというのは、やられたら分かるが、めちゃくちゃ頭にくるものだ。

以上の理由から、僕は「わたしもそうだった」、あるいはその言葉を振りかざしてきがちな先輩というものが、嫌いなのである。

二十歳にもなれば、4、5歳の年齢差なんてほとんど関係ない。年齢によって置かれる状況なんて、そのときになればなんとなく了解してうまくいくものだ。先輩に話を聞けばうまくいく、なんて年代は終わったと考えなければならない。しかし実際には、歳をとればとるほど、われわれは後輩というものに経験則を語りたくなるのだから、ほんとうにたちが悪いよね。