IJIMEとIJIRI

 前回の記事に、いろいろと赤裸々チックなことを書いた。ら、いろいろな人から反響をもらって、嬉しい半面、ちょっと意図していない受け取られ方をした可能性もあるので、半年前に書いたこちらの記事を引用しようと思う。まさしく「セキララ」というタイトルの記事である。

 ブログだから全てノンフィクション、みたいに思われても困るので、どこかに「このブログはフィクションです」という注意書きを書こうかなとも思うのだが、さすがにこのブログを面白がって読んでくださっているような方々はそこまで馬鹿ではないと思うので、「多少の誇張や被害妄想、大言壮語は『おもしろ』として飲みこんでくれるよね?」という油断がある。なんか、この油断が危ないような気もするが、まあ、そこのところを信頼しなければこんなところに文章なんて書けないなあと思うし、書いてはいけない、ような気もする。願ってもない、弱い立場である。

 まあ、今の僕が言いたいことのほとんどを半年前の僕が言ってくれてるので、そういうことですよっていう感じなんですけど、前回のブログ、更新時間見てくださいよ、午前三時ってなってるでしょ。午前三時に、物語を純度百パーセントの真実として書ける人なんて、この世にいませんよ。夜って、みんなそうだと思うけど、脳みそ狂ってるでしょ。
 これも以前書いたな。これだ。去年の十一月。

 そうそう、会田さんがその本(引用注:『カリコリせんとや生まれけむ』)のなかで「パーソナルな深夜の呟き」と「パブリックな昼間の発言」の違いについて、まあ簡単に言えば「いま自分が語っているのはどちらかってことを分かっておく必要があるよね」みたいなことを書いていて。で、このブログの文章のことを考えてみたときに、更新時間とか見てもらったら分かるでしょうけどだいたい深夜で、しかもこのクオリティーだから、もう圧倒的に、光り輝く「パーソナルな深夜」であるわけじゃないですか。まあ自覚してるから勘弁してよ、ってことなんだけど、問題はこの文章が読まれる場所は読者次第、というか、パブリックな昼間であっても全然問題ない、ということなのです。なんなら、国会議事堂とか、皇居とか? もっとワールドワイドにタイムズスクエアの前とか、天安門広場とか、わかんないけど、そういう「Ustreamなう」みたいな白昼のパブリック感のあるスペースで読まれることもあるんだなあと、それってちょっとやだなあと、思うわけです。

 こういうことを逐一過去の記事から引用すると、「たごちゃんうざいなあ」とか「そんなこと言うならもう読ーまない」と思われるかもしれないですけど、僕は永久に、繰り返し同じことを言っているつもりなのです。つまり、書く行為と読む行為とは——こちら側とそちら側の、時空を超えた出会いであるわけです。そうすると、私はあなたの時空にもいないし、あなたは私の時空にもいない。なんか、そこらへんのところに思いを馳せつつ、フアーーーッっとした気分で読んでほしいのです。フアーーーッ。


 さて。めんどくせー前置きを馬鹿どものために(あなたじゃないよ!)したところで、今日の話をしたいと思います。正直、もう寝ようかなと思ってたんですけど、今日、わりとフアーーーッっとしてる時間の多い一日を過ごして、そのなかでいろいろ思うところというか、考えることがあったので、記憶が残っているうちに残しておこうと思う。

 「いじめ」と「いじり」についてだ。

 僕は以前から、常々「いじめっていうのは加害者でも被害者でもなく『傍観者』という存在が一番やっかいであり、いじめをいじめたらしめているのではないか」と思ってきた。その根拠がこのところ、フアーーーッと頭に浮かんでいるので、書いていこうと思う。そうだなあ、僕の経験から話すよ。
 僕はふだんから、わりといじられることが多い。そしてそれは、しばしばいじめに発展する。僕は非常にブサイクで、身長が低く、小太りで、ハゲなので、集団のなかでは「いじられキャラ」を担うことがもっぱらである。それはありがたいことでもあるし、どのようなことを言われても自分の心のなかでは笑って処理できるスキルを身につけている。そうでなければ、人の嫌がることを面白がって言うような頭のおかしい人たちが闊歩するいまの世の中は生きていけないっすからね。
 で、そんなことはどうでもいいのだけれど、そんな僕でも「あ、これはいじめだな」と思うことが時たまある。

 それは、度を越した「いじり」に、傍観者が引いているときである。
 
 これは非常に難しい話になるのであるが、「かわいそうな自分」という存在がどの時点で発生しているのか、ということを考えれば、理解できると思う。例を出して、ゆっくり説明するね。ちなみに、ここでいう「いじめ」とは、「言葉の暴力」と言い換えてもらっても構いません。

 A君が、Bさんに「この尻軽女!」と言うとする。仮にここでは、そのときA君の心の中には「Bさんを面白がる気持ち」しかないとする。そしてBさんも、それを言われても「ははは」と思い、特に気にしないとする。Bさんはたまたま、馬鹿の言うことを笑って処理するスキルの高い人だったんだろう。よかったねA君。
 しかし、このとき、それを傍から見ていたC君がいたとする。その光景を見たC君は、Bさんが「尻軽女」と言われたことに心が痛む。「Bさんは、ああして笑っているけど、本当はとても悲しいんじゃないかなあ」と思う。「かわいそうだなあ、Bさん」。
 はい、ここ。この瞬間、世界に初めて「かわいそうなBさん」が登場した。C君によって、世界で初めて発見された、と言ってもいいだろう。C君のこころのなかに現れた、「かわいそうなBさん」。このとき、Bさんは初めて「かわいそうな人」となったのである。

 このように、周囲にいる者は「いじめ」を認定する立場にある。
 
 この意見に納得しないなら、A君とBさんが無人島で二人きりでいる場面を想像すれば話はさらに分かりやすくなる。A君がBさんに「この尻軽女!」と言う(二人しかいない無人島でどう「尻軽」なのかは、想像にお任せする)。このとき、Bさんが気にしなければ、その暴言は水に流れる。このとき、「かわいそうなBさん」は世界に存在していない(少なくとも、「認識」としては)。
 しかし、この島にC君、Dさん、Eさんがいたとする。C君とDさんは、そんなことを言われたBさんのことを可哀想だと思う。C君はA君を睨みつけて、DさんはBさんを憐れみの表情で見つめ、あとでこっそりとBさんを慰めに行く。そのときはじめて、Bさんは他人の心に映った「かわいそうな自分」を発見して、「自分が受けた発言は侮辱であり、いじめ(というか言葉の暴力)だったんだ」と気付くだろう。そして、壊れてしまった人間関係の原因として、かわいそうな自分を責めるかもしれない。

 言葉の暴力をはじめとする「いじめ」は、人と人との関係性の中に現れるようだ。人が言ってきたことに対して、その捉え方を変えるのは容易である。自分自身の心の動きを制御して、誤魔化すだけでいい。そのような心理的防衛は、人には生まれつき備わっている。心理学では「解離」と呼ばれているそれであろう。一時的に「心ここにあらず」の状態にして、意識を別の世界に飛ばすのである。これは簡単だ。つまらない授業や退屈な仕事の合間に、誰でも毎日やっている(僕も今日は四時間ほどこの状況で過ごした)。しかし、自分が言われたことについて他人がどう思うかは、自己の心理的防衛ではどうにもすることができない。曲げようのない事実として、他者の意思はたしかに存在する。そして、これは何でもそうだが、ある事象を最も客観的に判断できるのは、直接の被害あるいは加害の関係にない、第三者なのである。

 さて、さきの無人島で話に出なかったEさんであるが、彼女は一体何を感じたのか。

 Eさんは、Bさんが「尻軽女」と言われたことに、傷ついていた。Eさんは昔から、自分が優しくされると断れないタイプであると、知っていた。高校時代、大好きな友人に、涙を浮かべながら言われたことがある。「この尻軽女!」。Eさんは、友人の大切な人を、奪ってしまったのだ。
 Eさんは、A君に暴言を吐かれても気にしない素振りをしているBさんを見て、傷つくと同時に、とても腹が立っていた。そのようなひどいことを言われて、なぜあなたは反論しないの。なぜあなたは黙っているの。
 Bさんは、自分を守ることに手いっぱいで、その態度が結果としてEさんを傷つけていた、かもしれない。
 
 途中から何を言っているのかわからなくなってきたましたが、ようするに、今後はよりいっそう、自分の発言には気をつけていこう、ということです。おやすみなせえ。