世界を終わらせてはならない

 世界には、入ってはいけない場所がたくさんある。たとえば、他人の部屋に勝手に入ってはいけない。それから、閉店後のデパートにも入ってはいけない。いけない、いけない。ぼくたちは、思ったよりも入っちゃいけない場所に囲まれて暮らしている。というか、入っちゃいけない、とされているように思わされているが、本当のところ、出ていっちゃいけなかったりする。自然法則は僕がロケットなしに宇宙に行くことを許さないし、日本は僕がパスポートなしに国外に出ることを許さない。

 踏切のなかは、入ることができる。ただし、遮断機が上がっているあいだだけだ。遮断機がおりているあいだ、あるいは遮断機がおりようと警笛を鳴らしているときには、踏切のなかに入ってはいけない。たとえ、死ぬためだろうと、人を助けるためであろうと、踏切のなかには入っちゃいけない。なぜなら、踏切のなかは、世界の外側だからだ。僕たちの世界は、自然法則や法律によって閉ざされているが、世界の外側に出る方法がないわけではない。遮断機がおりた踏切のなかに、目を凝らしてはいけない。そこは闇であり、世界の外側だからだ。砂漠に浮かぶ蜃気楼のようなものだ。
 

 台風が来るたびに、自分の畑の様子を見に行って、行方不明になる人がいる。
 先祖代々受け継いできた大事な畑に、汗水流して大切に育てた作物がある。大切なものを守りたいという思い。命の危険を冒すに値する理由がある。少なくとも、本人はそう思ったのである。
 踏切の中の他人と、台風の日の愛する畑。赤の他人を救おうという思いと、大切な畑を守ろうという思い。理に適っているのは、畑を守ろうという思いだ。命が大切なのではない。愛するものが大切なのだ。愛猫が死んで涙する者でも、見知らぬ人間の死には涙しない。当然だ。

 踏切の中の他人を助けて、自分は死ぬ、その行為の、得体のしれなさ。理由のなさ。説明のつかなさ。自分の命を犠牲にしてでも、赤の他人の命を救うのが信条ならば、この世界では、一年と生きていられない。きまぐれで、世界の外側に出てはいけない。あなた亡きあと、世界にあなたへの称賛は存在しない。あなたの死は、世界の消滅だ。生きなければならない。世界の外側に、目を凝らしてはいけない。