やはり実家は快適である

いま、実家にいて、優雅にブログを書いている。なにが優雅かといえば、iPadBluetoothでキーボードを接続して打っているので、目の前のテーブルの上にiPadを置きつつ、ソファーに座ってややのけぞりながら自分の太ももの上でタイピングをしているのである。これがめちゃくちゃ書きやすいのだ。そして、めちゃくちゃ眠いのである。なにしろ、まだ朝の九時二十分だ。

そう、実家にいるのである。福岡ではなにもすることがない。このブログを一緒にやっているうえだくんは福岡にいるが、なかなか会えないし、そもそも最近話が合わない。うえだくんとは鹿児島で三年間一緒に過ごしたが、二人とも大学生になって、福岡と東京で別れて三年半が経った。一緒に過ごした時間よりも、別々になってからの時間のほうが長くなれば、お互いに分かり合えなくなるのも当然のことだ。いつも述べているが、かつてともに学んだ学友であれば遠く離れても久しぶりに会ったら話が弾む、なんてことはないと僕は思う。去る者は日日に疎し。必要なのは、振り返らない勇気だけだ。こんなだから、小学校の友達も中学校の友達も消滅したのであるが。

このブログが『タゴモのユニバーサルライブ』になる日も近い、と前に書いたが、それに関しても、次第に現実味を帯びてきている。というか、新しく一緒にやってくれる人を探している。特に書きたいこともないままにブログを書くというような完全に無駄な作業を、無駄とわかりつつ一緒にやってくれる人というのは、思いのほか少ない。みんな、自分が成長できること、意味のあることだけをやろうとしていて、あるいは、自分のやったことにあとから意味を付与することに一生懸命になっている。そういう世の中だし、現にそれを求められてもいる。そこに抗っていきたいよね、みたいなことであるが、ようはひとりでやるのは寂しいのでだれか付き合ってよ、ということである。

また更新しまーす。ゼミ論文を書くにあたって、読まなければならない本がたくさんある。

IJIMEとIJIRI

 前回の記事に、いろいろと赤裸々チックなことを書いた。ら、いろいろな人から反響をもらって、嬉しい半面、ちょっと意図していない受け取られ方をした可能性もあるので、半年前に書いたこちらの記事を引用しようと思う。まさしく「セキララ」というタイトルの記事である。

 ブログだから全てノンフィクション、みたいに思われても困るので、どこかに「このブログはフィクションです」という注意書きを書こうかなとも思うのだが、さすがにこのブログを面白がって読んでくださっているような方々はそこまで馬鹿ではないと思うので、「多少の誇張や被害妄想、大言壮語は『おもしろ』として飲みこんでくれるよね?」という油断がある。なんか、この油断が危ないような気もするが、まあ、そこのところを信頼しなければこんなところに文章なんて書けないなあと思うし、書いてはいけない、ような気もする。願ってもない、弱い立場である。

 まあ、今の僕が言いたいことのほとんどを半年前の僕が言ってくれてるので、そういうことですよっていう感じなんですけど、前回のブログ、更新時間見てくださいよ、午前三時ってなってるでしょ。午前三時に、物語を純度百パーセントの真実として書ける人なんて、この世にいませんよ。夜って、みんなそうだと思うけど、脳みそ狂ってるでしょ。
 これも以前書いたな。これだ。去年の十一月。

 そうそう、会田さんがその本(引用注:『カリコリせんとや生まれけむ』)のなかで「パーソナルな深夜の呟き」と「パブリックな昼間の発言」の違いについて、まあ簡単に言えば「いま自分が語っているのはどちらかってことを分かっておく必要があるよね」みたいなことを書いていて。で、このブログの文章のことを考えてみたときに、更新時間とか見てもらったら分かるでしょうけどだいたい深夜で、しかもこのクオリティーだから、もう圧倒的に、光り輝く「パーソナルな深夜」であるわけじゃないですか。まあ自覚してるから勘弁してよ、ってことなんだけど、問題はこの文章が読まれる場所は読者次第、というか、パブリックな昼間であっても全然問題ない、ということなのです。なんなら、国会議事堂とか、皇居とか? もっとワールドワイドにタイムズスクエアの前とか、天安門広場とか、わかんないけど、そういう「Ustreamなう」みたいな白昼のパブリック感のあるスペースで読まれることもあるんだなあと、それってちょっとやだなあと、思うわけです。

 こういうことを逐一過去の記事から引用すると、「たごちゃんうざいなあ」とか「そんなこと言うならもう読ーまない」と思われるかもしれないですけど、僕は永久に、繰り返し同じことを言っているつもりなのです。つまり、書く行為と読む行為とは——こちら側とそちら側の、時空を超えた出会いであるわけです。そうすると、私はあなたの時空にもいないし、あなたは私の時空にもいない。なんか、そこらへんのところに思いを馳せつつ、フアーーーッっとした気分で読んでほしいのです。フアーーーッ。


 さて。めんどくせー前置きを馬鹿どものために(あなたじゃないよ!)したところで、今日の話をしたいと思います。正直、もう寝ようかなと思ってたんですけど、今日、わりとフアーーーッっとしてる時間の多い一日を過ごして、そのなかでいろいろ思うところというか、考えることがあったので、記憶が残っているうちに残しておこうと思う。

 「いじめ」と「いじり」についてだ。

 僕は以前から、常々「いじめっていうのは加害者でも被害者でもなく『傍観者』という存在が一番やっかいであり、いじめをいじめたらしめているのではないか」と思ってきた。その根拠がこのところ、フアーーーッと頭に浮かんでいるので、書いていこうと思う。そうだなあ、僕の経験から話すよ。
 僕はふだんから、わりといじられることが多い。そしてそれは、しばしばいじめに発展する。僕は非常にブサイクで、身長が低く、小太りで、ハゲなので、集団のなかでは「いじられキャラ」を担うことがもっぱらである。それはありがたいことでもあるし、どのようなことを言われても自分の心のなかでは笑って処理できるスキルを身につけている。そうでなければ、人の嫌がることを面白がって言うような頭のおかしい人たちが闊歩するいまの世の中は生きていけないっすからね。
 で、そんなことはどうでもいいのだけれど、そんな僕でも「あ、これはいじめだな」と思うことが時たまある。

 それは、度を越した「いじり」に、傍観者が引いているときである。
 
 これは非常に難しい話になるのであるが、「かわいそうな自分」という存在がどの時点で発生しているのか、ということを考えれば、理解できると思う。例を出して、ゆっくり説明するね。ちなみに、ここでいう「いじめ」とは、「言葉の暴力」と言い換えてもらっても構いません。

 A君が、Bさんに「この尻軽女!」と言うとする。仮にここでは、そのときA君の心の中には「Bさんを面白がる気持ち」しかないとする。そしてBさんも、それを言われても「ははは」と思い、特に気にしないとする。Bさんはたまたま、馬鹿の言うことを笑って処理するスキルの高い人だったんだろう。よかったねA君。
 しかし、このとき、それを傍から見ていたC君がいたとする。その光景を見たC君は、Bさんが「尻軽女」と言われたことに心が痛む。「Bさんは、ああして笑っているけど、本当はとても悲しいんじゃないかなあ」と思う。「かわいそうだなあ、Bさん」。
 はい、ここ。この瞬間、世界に初めて「かわいそうなBさん」が登場した。C君によって、世界で初めて発見された、と言ってもいいだろう。C君のこころのなかに現れた、「かわいそうなBさん」。このとき、Bさんは初めて「かわいそうな人」となったのである。

 このように、周囲にいる者は「いじめ」を認定する立場にある。
 
 この意見に納得しないなら、A君とBさんが無人島で二人きりでいる場面を想像すれば話はさらに分かりやすくなる。A君がBさんに「この尻軽女!」と言う(二人しかいない無人島でどう「尻軽」なのかは、想像にお任せする)。このとき、Bさんが気にしなければ、その暴言は水に流れる。このとき、「かわいそうなBさん」は世界に存在していない(少なくとも、「認識」としては)。
 しかし、この島にC君、Dさん、Eさんがいたとする。C君とDさんは、そんなことを言われたBさんのことを可哀想だと思う。C君はA君を睨みつけて、DさんはBさんを憐れみの表情で見つめ、あとでこっそりとBさんを慰めに行く。そのときはじめて、Bさんは他人の心に映った「かわいそうな自分」を発見して、「自分が受けた発言は侮辱であり、いじめ(というか言葉の暴力)だったんだ」と気付くだろう。そして、壊れてしまった人間関係の原因として、かわいそうな自分を責めるかもしれない。

 言葉の暴力をはじめとする「いじめ」は、人と人との関係性の中に現れるようだ。人が言ってきたことに対して、その捉え方を変えるのは容易である。自分自身の心の動きを制御して、誤魔化すだけでいい。そのような心理的防衛は、人には生まれつき備わっている。心理学では「解離」と呼ばれているそれであろう。一時的に「心ここにあらず」の状態にして、意識を別の世界に飛ばすのである。これは簡単だ。つまらない授業や退屈な仕事の合間に、誰でも毎日やっている(僕も今日は四時間ほどこの状況で過ごした)。しかし、自分が言われたことについて他人がどう思うかは、自己の心理的防衛ではどうにもすることができない。曲げようのない事実として、他者の意思はたしかに存在する。そして、これは何でもそうだが、ある事象を最も客観的に判断できるのは、直接の被害あるいは加害の関係にない、第三者なのである。

 さて、さきの無人島で話に出なかったEさんであるが、彼女は一体何を感じたのか。

 Eさんは、Bさんが「尻軽女」と言われたことに、傷ついていた。Eさんは昔から、自分が優しくされると断れないタイプであると、知っていた。高校時代、大好きな友人に、涙を浮かべながら言われたことがある。「この尻軽女!」。Eさんは、友人の大切な人を、奪ってしまったのだ。
 Eさんは、A君に暴言を吐かれても気にしない素振りをしているBさんを見て、傷つくと同時に、とても腹が立っていた。そのようなひどいことを言われて、なぜあなたは反論しないの。なぜあなたは黙っているの。
 Bさんは、自分を守ることに手いっぱいで、その態度が結果としてEさんを傷つけていた、かもしれない。
 
 途中から何を言っているのかわからなくなってきたましたが、ようするに、今後はよりいっそう、自分の発言には気をつけていこう、ということです。おやすみなせえ。

バナナ

 明日は選挙ですね。参議院選挙です。僕はいま21歳なので、いままでたぶん三四回投票所に行く機会があったのですが(地方選挙含めて)、ほとんど行っております。ほとんど、というのは、そうです、投票にいかなかった選挙もあります。去年の衆議院選挙は行きましたが(これだな)、前回の東京都の議員選挙?は行きませんでした。でも、長い人生これから何百回と選挙を経験すると思うので、トータルで六割くらい行けたらいいな、みたいな気持ちでいるっす。だって、いつもいつも選挙に行きたいモチベーションでもないだろうし、そもそも投票期間に自宅にいないと投票所に行けないわけだし、投票用紙はソッコーで失くしそうな地味さだし(意外と選挙戦が盛り上がる前に届くのがミソ)。とにかく世の中のダークマターが一様に「お前を選挙には行かせまい!」と裏で働いているような感じがするんだもの。あと、住民票を実際の住居に移してないと投票用紙が来ないシステム、あれね。あれによって、地方出身の大学生の半分くらいが、選挙に行けなくされていると思うのです。海外に留学に行ってる人はどうなるの、っていうのもあるし。だからまあ、そういうことをいろいろ考えると、全部が全部の選挙に必ず行くっていうことよりも、その都度の選挙でできるだけ時間をとって政治について考えて投票に行くっていう、それが大事なんじゃないかなと思いますけどね。で、やっぱいろんな条件を考えると、若者の投票率が低いっていうのは仕方のないことに思えるというか、若い人が政治に参加するためには選挙のやり方そのものを変える、制度を変える、っていうことが必要でしょうね。いまの政治家にとって、というより、若い世代にとって。じゃないと、政治はいつまでも年寄りによる年寄りのための年寄りによる政治のままでしょう。

 で、そんなことを考えつつ、今日はミスタードーナッツで本を読んでいたのですが、ミスド、バナナフェアみたいなものをやっていて、店内放送がバナナバナナ連呼してて何度も笑いそうになってしまいました。店内の放送で読みあげられていたのとほぼ同じであろう文章を見つけたので、ホームページ(http://www.misterdonut.jp/m_menu/new/130626_003/)からちょっと引用しますとね、

バナナファッション……バナナ型のオールドファッションを、バナナチョコでコーティングしました。
チョコバナナファッション……バナナ型のオールドファッションを、バナナチョコでコーティングし、さらにチョコでデコレーション。
バナナホイップフレンチ……フレンチクルーラーバナナホイップをサンドし、バナナチョコでコーティングしました。
ポン・デ・バナナ……もちもちのポン・デ・リングバナナチョコでコーティングしました。
ポン・デ・バナナホイップ……ポン・デ・リングバナナホイップをサンドし、バナナチョコでコーティングしました。
バナナホイップ……ふわふわの生地にバナナホイップをつめ、バナナチョコでコーティングしました。

 やっぱりバナナバナナ言いすぎなんですよ。18回バナナって言ってるんです。で、すごいなあと思ったのは、店内放送のナレーターのお姉さんは、襲い来るバナナの嵐にもめげず、すべてのバナナをバ↑ナ↓ナ↓と言い切り、一度もバ↓ナ↑ナ↑(「カレシ」風)やバ↓ナ↑ナ↓(欧米風)で言わなかったということですかね。思ったよりバナナの話題が面白くなかったので終わりにします。ありがとうございました(ちなみにまだバナナシリーズは食べてません、僕が食べたのはエビグラタンパイ↑です)。

なぜお笑いコンビはお互いのことを「さん」付けで呼ぶのか

 以前、テスト前の部屋掃除としてのブログと題した記事で、「人生とは『死』というテスト前の長い長い部屋の掃除である」という名言を残した僕ですが、そろそろ大学がレポートの時期に入ってきたということで、このブログの更新も多くなっていくような気配を漂わせています。こんばんは。

 今回の記事は、タイトルのとおり、なぜお笑いコンビはお互いのことを「さん」付けで呼ぶのか、ということを考えます。
 まず、代表的な例ですが、ダウンタウンはお互いのことを「浜田さん」「松本さん」と呼んでいます。それから、さまぁ〜ずもお互いのことを「大竹さん」「三村さん」と呼んでいるようです。ナインティナインも、突っ込みの矢部っていう人は相方のことを「岡村さん」と呼んでいます。

 これにはおそらく理由があります。ひとつめ。どのコンビも、学生時代からの付き合いなので、長く付き合っていくうちにあだ名で呼びあうのが恥ずかしくなったのではないか。それからふたつめ、僕は恐らくこちらが重要じゃないかと思うのですが、お笑いを観ているお客さんが、あだ名で呼び合う「慣れ合い」を目にすると、テンションが冷めてしまうんじゃないかと思うのです。

 これと同じ状況は日常生活にもあって、たとえば一緒に歩いていた友人が街ですれちがった相手に声をかけたりしますよね、たまたま知り合いだったらしいとき。そんなとき、僕なんかは嫉妬深い生き物ですから、「今のだれ?」と聞くんですね。それにたいして「山本くんだよ」って言われるのと「リョウマだよ」って言われるのではだいぶテンションが変わってくるのです(名前はテキトー)。なんていうか、そういうときに親しげな呼び名を言われると、僕は疎外感を感じるのです。いま自分の前にいるひとに、別の世界があって、そこではまた別の顔を持っていて、それなりに楽しそうにしている、というところまでバアーッと想像がいってしまう。女の子かよ、って感じですが。
 で、これについてなにが言いたいかというと、一つの処世術として「親しいのは君だけ」感を出すっていうのは非常に重要なのではないか、ということです。うわべっつらだけでもいいので。
 こう考えてみると、お笑いコンビがお互いのことを「さん」付けで呼ぶのには非常に意味があると思います。お客さんはお笑いのトークを、二人の過去を共有しないまま、共有しなければならないので。この論理でいくと、なぜ「トークができるお笑い芸人」はトリオではなくコンビなのか、というところも見えてくる気がする。


 暇なので過去に自分が書いた記事を読んでいたのですが、一体全体なにを書いているのか分からない文章だらけで、まあそんなことは書いてるときから百も承知で書いてるからいいんだけど、本当に純然たる駄文を積み重ねて今日まできているのだなあと感心した。感心している場合ではないが。

I was NEVER like you

ブログでも書いてみよう。書くことで埋まる余白があれば、書くことで潰れる時間もある。見やすい書類に余白はつきものだが、心地よい人生にも余白が必要だ。そしてその余白を、たまにこのような文字の落書きで埋めてみるは、学生の性分が抜けきらないからだが、実際にまだ学生だし、いけるところまでこの気持ちで生きていこうと思う。小学生がボール遊びを覚え、幼稚園児のお遊戯を笑うように、中学生が数学を学び始め、小学生の算数を馬鹿にするように、高校生がアルバイトを始め、中学生を嘲笑するように、大学生が暇をもてあまし、高校生のせわしない日々を青臭いものとして過去にしていくように、ぼくたちはまた、大学生の日々を社会人になって「わがもの顔」で振り返るのか。そんなまやかしの「成長」は、そろそろやめようじゃないか。いったいいつまで、過去を見下して振り返るだけで自分が大きくなった気でいられるような、恐ろしく呑気な生き物でいられようか。大学生にもなれば、知ったような顔で「社会」を振りかざしてくる大人にたいして、殺意を持っても構わないし、いや、持つべきであろうと思う。もう気づいただろう。われわれの先には誰もいないし、われわれの後ろにも、誰もいない。時代は絶えずうつり変わり、一方向に流れ続ける。人生の一年先輩の「メソッド」なんて、もう古いのである。社会に出る、ということは、社会というものが代々受け継いできた古い体質のなかに飛び込むということである。そのなかに変革なんてない。ただ右向け右、前倣えの世界である。

話がややこしくなったが、僕は先輩というものが嫌いである。先輩というやつは、身勝手に取得した経験則をさも一般論であるかのように語る。たいていの場合、こちらが体験したことのない状況のことだから、はあそうなんですね、大変ですね、としか言い様がない。それでいて、こちらが今の状況についてなにか言うと、どこか遠い目をして、「わたしもそうだったよ」というようなことを言う。

僕は先輩というものが嫌いだが、言い換えればこれが嫌いなのだ。「わたしもそうだったよ」、この言葉が。

リビアニュートンジョンの曲に、Have you never been mellow という曲がある。邦題がたしか、『そよ風の誘惑』。この曲、歌詞のところどころで、オリビアが悩める者にたいして“I was like you 〜”と歌う。
僕はこの曲が大嫌いだ。「わたしもそうだった」なんて言葉、よく言えたものだと思ってしまうのだ。

断言しよう。ひとの話に対して「わたしもそうだった」なんて言ってしまうやつは、聞く力が圧倒的に欠如している。ぼくはこの「わたしもそうだった」を、人とのコミュニケーションにおいて絶対に使ってはいけない言葉だと認識している。理由は、ふたつ。ひとつめ、事実「わたしもそうだった」ということなんて、まず有り得ないからだ。「わたし」の体験は決して一般化できないし、「あなた」の体験も同じだ。「わたしもそうだった」なんていうやつは、相手の話をきちんと聞いてあげる気が、初めから無い奴だ。
ふたつめ。みな、自分の体験はかけがえのない、尊いものだと思っている(し、事実そうだ)。そこに、他人が偉そうに「わたしもそうだった」という経験的優位性でもって語ってくるというのは、やられたら分かるが、めちゃくちゃ頭にくるものだ。

以上の理由から、僕は「わたしもそうだった」、あるいはその言葉を振りかざしてきがちな先輩というものが、嫌いなのである。

二十歳にもなれば、4、5歳の年齢差なんてほとんど関係ない。年齢によって置かれる状況なんて、そのときになればなんとなく了解してうまくいくものだ。先輩に話を聞けばうまくいく、なんて年代は終わったと考えなければならない。しかし実際には、歳をとればとるほど、われわれは後輩というものに経験則を語りたくなるのだから、ほんとうにたちが悪いよね。

痛さに慣れ

 ひっさしぶりにうえだくんに「ブログ更新してよ」って言ったら、なんとなくだけど「あんな痛いブログ一緒にやるのもう嫌なんだよね」みたいな雰囲気出してきたので、このブログのタイトルが『タゴモのユニバーサルライブ』になる日も近いのかなあって思いました。まあ、当初からうえだくんはあまり乗り気じゃなかったというか、そういう雰囲気は常に出してきてたし、こういう自意識過剰な文章読んで面白がる人じゃないっていうのは分かってたんですけどね。彼は、わりと淡々とものごとを突き詰めていくタイプなので。

 僕はブログでもツイッターでもそうですけど、っていうか小学生のころからずっと「痛いやつ」として育ってきて、いまだにツイッター見た人とかブログ読んだ人から「痛さ」を指摘されるんですね。でまた、こういうこと自己言及してること自体「痛い」じゃないですか。文章も上手くない、特異な体験をしてるわけでもない、有名人でもない奴が何かを「語る」っていうことがイコール「痛い」に直結しがちな現代社会、まごうことなき「痛さ」を地で行ってる僕はわりと貴重なタイプだと思うのです。こういうことはもう以前から散々言ってますけど、「オープンに何かを書き表す」のにはいまだに「地位」「文章力」「発想の奇抜さ」「知名度」「強い動機」みたいなものが不可欠だという風潮があって、そういうのがない僕みたいなやつがオープンになにか書くとそれだけで「痛い」「かっこわるい」みたいな感じになるっていう。僕が言いたいのはね、肩書きにぶら下がれないと何も書けないっていうのは、悲しいことですよ、きっと。せっかく面白そうなひとでも、「なにか文章を書かないの」って聞くと、「文章力がないから嫌」とか「書きたいことがない」って言うのよみんな。文章力があったり、書きたいことがあったりしないと文章が書けないのであれば、書店に本は並ばないし、作家は本を書けないと思うよ。文章力があったり(そもそもいきなり「文章力がある」奴って何者だよ)、なにか強力な「伝えたいメッセージ」があったりして、そこから「書こう」って思うんじゃないと思うけどなあ。もちろんそういうタイプもごく少数いるでしょうけどね。
 あと、よく「ブログやるなら日記を書けばいいじゃん。わたしも日記書いてるよ」って言ってくる人がいるんだけど、僕は日記も書くし、かといって日記とブログの違いがそんなにないんだよなあ。ブログでも心情を吐露しているので。自分の書いたものをオープンにしない、つまり日記派の人たちは、それこそ個人名を出して誹謗中傷したり、読まれたらやばいプライベートな内容を書きつづってるんでしょうけど、僕はそれをやるつもりはあまりないというか。僕は日頃のイライラを手記に書き殴ったらひとりでストレスが解消できるほど立派な人間じゃないのです。自己を省みる手段として日記は重要ですけどね。そんなものとは別にやってるわけですから、ブログは。

 いつまで、なんの肩書きもなく自由にブログなんてものを書いていられるかなあ、と思う。ずっとこうしていたいですよ、ほんとにねえ。

 「痛さの壁」を眺めてないで、いくつもぶつかって乗り越えていく方が、人生楽しいと思いますけどね。どうなんでしょう。

無題(日常)

(1) 後藤ひろひとが『大王集vol.1』のなかで、アメリカのカントリー歌手であるガース・ブルックスを引き合いに出して、「アメリカの人口のほとんどは、ニューヨークやロサンゼルスといった都市部ではなく田舎に住んでいて、それゆえアメリカではカントリー音楽が非常に好まれる」というようなことを書いていた。本を探し出してきて正確に引用するのが面倒なので、なんとなくそんなことが書いてあった、と思っておいてほしい。で、実際に日本ではほとんど知名度がない(と思われる)ガース・ブルックスというおじさんはカントリー歌手であり、アメリカ国内では歴代CD売り上げの第三位で、これはビートルズとレッドツェッペリンに次いで、四位のエルヴィス・プレスリーを上回るのだというのだから驚きだ。女性アーティストのシャナイア・トゥエインなんかも含めて、彼らカントリーの歌い手の国内でのCD売り上げはマドンナやマイケル・ジャクソンをゆうに超えているのだという。

(2) で、日本で「カントリー音楽」ってどういうものかと考えてみたら、CDよりもレコチョクなんかで売れてる(田舎にCDショップはない)、カタカナとかアルファベットの、しょっちゅう誰かとフューチャリングしてる歌手の、露骨なまでの恋愛体質を歌ったものばかりが頭に浮かぶ。それが音楽として優れてるとかそういうことは言うつもりはなくて、ここから日本の田舎、そしてヤンキーについて考えてみるのも、面白いのかなあと思う。

(3) 献血に行ったら、待合室で四十くらいのおじさんが18歳の大学一年生(と自分で言っていた)の女の子をナンパしており、「今日これから原宿でパーティーがある、来ないか」「金曜日にたこ焼きパーティがある、来ないか」としきりに誘っており、鬱陶しいなあと思いながら無料のカルピスを飲んでいたのだが、献血所という場所に集う人たちはどこか平均以上の優しさを持っている人が多いだろうし(僕は冷たいものを飲みながら読書をできる場所を探していたのだが)、献血ルームでナンパをするというのは正解だろうなあと思った。メンヘラの女の子は誘いやすいだろうし。

(4) 町を歩いていると、周りを歩いている全ての人間について、「どう考えてもこいつら頭使って生きてないだろうな」と思うことが多々ある。目がうつろだったり、口が半開きだったり、まあそんなことはどうでもいいっちゃどうでもいいのであるが、「どうでもいい」というのと「人間として接してあげる」というのは別である。

(5) フェイスブックに『涙腺崩壊3秒前 〜思わず涙する感動秘話〜』というページがあって、いわゆる「感動的な」「泣ける」話がたくさんあるのだが、いい歳した大人がこんなインスタントな話で感動して身につまされてるっていう、その現状ってどうなのよと思うし、官能に直接訴えかけられてなんぼ、みたいな「即・官能的」なものを求めるのがヤンキーのメンタリティなんだろうなあと思う。勉強のいらない、わかりやすいもので感動するのは、若いうちならまだいいが、歳とってそれやってんのは相当恥ずかしい、ということを理解しなきゃいけないと思う。で、本当に感動しているならまだマシだが、個別の「感動的な話」を引き合いにして感銘を受けたふりをして結局感想として今の自分語りに終始するなどといった残酷なやり方が横行している(というかほとんどそれ)のは、わりと本気で全員別の世界で生きてほしいと思う。

(6) 消費社会のなかで、バリバリ仕事をして働くことが至上命題になっている。そのような社会を作り上げてきたのは歴史の中で常に男であったが、ついに男は女を動員して、男女共同参画社会を完成させようとしているとしたら。そして、女たちから家庭や妊娠、出産といった個々の身体として代替不可能な作業を奪っているのが、フェミニストたち(男の傀儡としての)だとしたら。
 フェミニストがやるべきことは、男たちの社会に取り入れてもらうことか、男たちから女の身体を取り戻すことか。

(7) 現代美術は「なんでもあり」の様相を呈している、などとよく言われるが、他の芸術のジャンルからしたら、今なお様々なアーティスト・アートの系統立て、順序立て、といった作業が根気強く続けられていると思う。美術ができることの提言として、(美術的)批評界の役割、枠組みを、他の芸術ジャンルに輸出すること(あるいはそうして美術の範疇を拡大すること)。

(8) 料理をすること、小説を書くこと、などといった「誰もがトライするがほとんどの人は上手くいかない」趣味は、それを堂々と「趣味」として語る者への風当たりが強い。

(9) 人間を二つに分けると、舞台に立てば立つほど面白くなっていく人間が一割と、面白くなくなっていく人間が九割いる。そして残念なことに、前者は舞台に立とうなんてことは滅多に思わないため、今日も舞台の上はどうひっくり返っても面白くない人間たちで溢れている。

(10)ルイーズ・ブルジョアの作品は、日本では六本木ヒルズの巨大な蜘蛛が最も有名だと思う。彼女の作品に『無題(指)』というのがあるのだが、『無題(指)』とするなら『指』とすればいいところを、なぜ『無題(指)』にしたのだろうと思った。こういう野暮なことを考えるのもさ、現代美術の見方だと思うよ。