あ、嫌われている、と気付いた瞬間の話

 生きていて、他人と接するとき、「この人、暗いなあ」ってこと、ありませんか?

 いつ話しかけても声のトーンが低いし、反応がもっさりしていて、なんだろうなあ、もっと楽しくいこうぜー、とか思ったりして。
 で、そういう人としばらく一緒に過ごして、不意に気付くことありませんか。

 「あ、この人、暗いんじゃなくて、俺のことが嫌いなんだ」、と。

 僕はね、たまにあるんですね、このようなことが。「僕のことが嫌い」という前提をひとつ与えるだけで、これまでの不可解な行動(理由のない敬語、話しかけても反応が無い、伏し目がち、適当なあいづち、等)が「嫌いな人に対する態度」という号令のもと理路整然と並ぶっていう。で、それに気付いた瞬間、サアアアアアアアっと血の気が引いていって、目の前が真っ暗になるのです。

 まあ、いいのです。嫌われてなんぼの人生です。僕のことを好きでいてくれる人より、僕のことが嫌いっていう人のほうが、圧倒的に多いはずです。僕は、僕のことが嫌いっていう人のために、僕のことが嫌いな人をたくさん作ってあげているので、あなたたちの仲間はたくさんいるのです。さあ、どうぞ、体面なんて気にせず、堂々と嫌いなさい、という気持ちです。
 誰かのことを嫌いになったとき、その人がみんなに慕われてる人だったりしたら、精神的にキツイでしょうけど、僕を敵にまわすことで同時に敵にまわる人っていうのは、一人もいません。ゼロなのであります。安心してくれ―!


 なんだろう、すごく卑屈だ。


 卑屈なのはよくないヨ、って言われるけどさあ。こちとら、逃げた媚びた、ひがんだ拗ねたで二十年よ。もうさあ、卑屈に卑屈に生きていこうよ、みんなでさ、っていう気持ちもありますよ。もっとも、僕は自分のことをそこまで卑屈だとは思ってないけどもー。

 近所の八百屋に、やたら声を出すアルバイトの青年がいるのです。
 最近は「甘いみかんいかがっすかーー!」って、すごい声量なのです。あ、これは別に、家にいるときにも聞こえてうるさい、というような苦情じゃなくて。いつも見かけるんだ。駅まで歩いていると。
 で、どうもそいつの、「異常な声出し」という「目に見えるがんばり」が、この地球の「がんばり」の基準を1メモリ上昇させている気がしてならないの。

 がんばりっていうのは、目に見えないがんばりならいいんだけど、露骨に見えるがんばりは、こちらのがんばりの価値の相対的下落を招くので、やめてほしいのです。オリンピックで金メダルを取るがんばりと、誰にも気づかれず褒められないがんばり、同じ程度のがんばりなら後者のがんばりのほうが素晴らしいと、圧倒的に信じているよ。だってさ、がんばりを見せつけ合って、みんなで焦ってがんばって、どうしようっていうのさ。産業革命もIT革命もひととおりすんだことだし、「みんなでがんばらない」っていう選択肢のほうが、よっぽど賢いと思うのです。
 オリンピックなんかも、東京でやったら、絶対みんながんばりはじめるでしょ、「北島の泳ぎを見て感動したから、おれもがんばる」なんつって。北島が背泳ぎがんばったからって、なんでお前がオフィスで書類作成をがんばるんだよ、っていう話でさ。もうね、スポーツ選手のような、「見せつけがんばりのプロ」みたいな人たちのがんばりをね、見ちゃダメですよ、おバカさんは。スポーツ選手のがんばりなんか、汗の量と記録で測れる、がんばりのなかでは最イージーながんばりでしょ。
 僕たちの目の前にあるがんばりは、走れば走るほど速くなるアスリートほど、分かりやすくはないですよ。
 
 ちなみに、全力で走ってる人には失礼だけど、高速で移動してる人間の顔って、なんか下品じゃないですか。草原を走るチーターは、そりゃシマウマ食わないと生きていけないですから、走りますでしょう、全力で。そして、その姿は美しいっす。
 でも、人間はそうじゃなくないですか。金メダルがないと本気で走らないんですよ、人間なんて。


 とか言いつつ、「テスト勉強してなーい」「シュウカツしてなーい」なんて言いながら、影でこっそり対策を練って努力しまくる日本人の国民性みたいなものも、あまり好きではないですけどね! どないやねん!